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たとえば、やさしさは

 

 なだらかな坂道の古本屋にあてもなく入った。

 埃っぽいような、酸っぱいような古本の匂いを嗅ぐ。棚にぎっしり並んだ本を眺めて背表紙をざっと見ては、興味のありそうなタイトルの本を手に取ってぱらぱらとページを捲ってみる。

 同い年くらいのアルバイトが奥のレジで本を読み耽っていた。こんなところでバイトしてみるのも悪くない。授業の合間に仕事をしながら、いろんな本を読めそうだ。本は僕の知らない世界へ連れて行ってくれる。でも、たぶん、僕は喫茶店みたいにいろんな人がめまぐるしく出入りするところでせわしく仕事するほうが性に合ってるのだろうな。そんなどうでもいいことをつらつら思いながら店を出る。

 坂道に軒を連ねた古本屋を何軒かぶらぶらまわっているうちに気分が落ち着いた。走馬灯のように頭のなかをぐるぐる回っていた遥の思い出も、すうっと心の奥底へ沈んでいった。僕は駅前の雑居ビルの階段を降り、立ち飲み屋や串焼きのカウンターが並んだ地下飲食店街へ入った。壁や天井にまで染みついた食用油の匂いをくぐるようにして飲食店街を出て、それから地下鉄駅の自動改札を抜けた。

 トンネルのなかで響いていた車輪の軋みと唸り声が止まった。窓からさっと光が射しこみ、電車は地上へせり出た。どこか薄っぺらな明るさで満たされた車内は下校途中の高校生で混みあっている。スマホの画面をいじっている学生もいれば、おしゃべりに興じている制服もいた。電車はがたごと揺れながら家とアパートがびっしり並んだ郊外の町をすり抜けていく。

 つり革に摑まって『三四郎』を読み始めた。

 東京へ出てきて途惑っているところは、自分とそっくりだった。というよりも、僕が三四郎に似ているのだろう。なにしろ東京はだだっ広くて、人が多すぎて摑みどころがないから、途方に暮れてどうしていいのかわからなくなってしまう。賑やかで華やかだけど、それはすべて他人事だ。思い切ってその賑わいへ飛びこみたいのに、どうやって飛びこめばいいのか、わからない。それに、道行く人々はみんな、自分を守るためだけの透明なビニールシートを被っているようだ。見知らぬ人を拒み、それでいて一言話しかければ崩れて落ちてしまいそうな、そんな脆い膜だった。

 三四郎があてどもなく電車に乗って東京のあちらこちらをさまよい歩く姿が描かれていたけど、僕も同じことをしたものだった。なにも考えないまま駅へ行き、路線図の形をした料金表を見上げる。目黒、渋谷、原宿、新宿、池袋、上野、秋葉原、両国、神田、四谷……まるで迷宮の地図のようだ。ふと行ってみたくなった駅までの切符を買い、電車を降りてからあてずっぽうに散歩してみる。ただ歩いて街並みを眺めるだけで、すこしは慰められた気がした。とりあえずだいたいの様子を摑んでおかないと、ほんとうに迷子になってしまいそうで不安だった。

 明治時代の終わり頃に執筆された小説を読みながら、いつの時代も人の考えることは同じなんだなと妙に関心した。三四郎が抱えた課題は、僕の抱えたそれと似通っていた。

 電車が大きく揺れた。

 目の前をプラットホームが流れ去る。

 ふと、ぬめりとした嫌な感じが胸にざらつく。

 文庫本から足元へ視線を落とすと、隣に立っていた女子高生の鞄に灰色のスーツの袖が突っ込まれていた。鞄のボタンが外れ、なめし革のカバーがめくれている。灰色の袖がそっと引きあがり、桃色の財布を握ったけむくじゃらの手が現れた。僕があっと息を飲んだ瞬間、

「なにしてんだよ」

 と、凄みの利いた声とともに真っ黒に陽に焼けた手が毛むくじゃらの手首を摑み、逆さに捻った。

 口ひげをたくわえた三十歳くらいの男が、すりを睨みつけている。すりを捕まえた彼の顔は、腕と同じようにこんがり陽焼けしていた。茶色い瞳が燃えるようだった。

「いてて、離して。すみません」

 すりは小柄でずんぐりとした四十がらみの中年男だった。グレーのコートに身を包み、どこかおどけたような顔貌かおかたちをしている。ひょっとこの物真似をすればとても似合いそうだ。頭は前から頭頂へかけてきれいに禿げ上がっていた。

「お兄さん、悪いけど、俺のスマホで警察に電話してくれない。繋がったら代わって」

 口ひげの彼が僕にスマホを渡そうとするので、

「自分ので電話しますよ」

 と僕はそう言ったのだけど、

「いいよ。お兄さんも忙しいだろ。こんなつまらないことに巻きこみたくないからさ。お兄さんのでかけたら、お兄さんもいっしょに警察へ行って事情を話さなくっちゃいけなくなるかもしれない。いいから早く電話して」

 と譲らなかった。

「お願いやめて」

 すりは素っ頓狂な声を出し、

「財布は返すから警察だけは勘弁してください。私はちっさい頃に父親から虐待を受けて、何度も家出しました。子供だったし、お金もないし、生きてゆくためにしょうがなく人の物を盗むようになったんです」

 とすがるように声を震わせた。

「誰がお前のトラウマを話せって言ったんだよ。俺はカウンセラーじゃねえんだ」

 口ひげの彼は声を荒げる。

「でも、ほんとうのことなんです」

「嘘つけ」

「どうして嘘ってわかるんですか?」

 すりはがっくりとうなだれた。

「当たり前だろ。お兄さん、電話してくんな」

 僕は一一〇番のボタンを押して、口ひげの彼の耳に当てた。彼は手短に状況を伝え、「お願いします」と言い僕に目で合図する。僕は電話を切り、

「写真を撮っておきますよ」

 と断って、彼のスマホで財布を握ったすりの手や全体の様子を撮影した。きちんと撮れているかどうかを確かめ、彼のジャンパーのポケットへ携帯電話を入れた。

「わたしも」

 財布をすられた女子高生はただあっけにとられて口許を手で押さえたままだったけど、ようやく我に返ったのか、自分の携帯で僕と同じように写真を撮り始めた。

「ありがとうございます。――ごめんなさい。わたし、びっくりしちゃって――」

 一通り写真を撮った彼女は、彼に向き直って頭を下げた。

「お礼はいいから財布が落ちないようにちゃんと見てて」

 彼はすりの顔を睨みつける。

「はい」

 彼女は小さく答え、真剣なまなざしでじっとすりの手首と財布を見つめる。女の子のつんとした鼻が愛らしい。顎がきれいに尖っていて、バービー人形を思わせるような小作りで可愛い顔立ちをしていた。クオーターかハーフなのかもしれない。ブレザーとチェックのスカートの制服を着て、長い黒髪を赤いリボンで結んでいた。真面目な女の子なのだろう。彼女は気を抜かずにすりを見張り続ける。

 次の駅にとまった。

「すみません。どいてください」

 そう言った口ひげの彼は女学生にいっしょにきてと声をかけ、すりの腕をひねったまま降りた。

「見逃してください。ちょっとだけ大目に見てください。ちょっとだけだからさあ」

 すりはさも哀れそうな声をあげる。

「なにがちょっとだ。うるせえ、黙ってついてこい」

 口ひげの彼は怒鳴りつけた。

「やめて、助けて。やめて、助けて――」

 すりは彼に引きずられて人混みを遠ざかる。女子高生はすりの手と財布を見つめながらふたりの後をついて行った。彼女の鞄にぶらさがっている小熊のマスコット人形がこっちを見ながらじゃあまたねとでも言いた気にゆらゆら揺れていた。

 電車はなにごともなかったように走りだした。東京の電車はすりが多いと聞いていたけど、実際に出会ったのは初めてだ。僕は慌てて自分のリュックを確かめた。ファスナーはきちんと閉じていたし、なかの傘と手帳はしっかり納まっていた。財布はいつもズボンの前ポケットへ入れることにしている。格好悪いかもしれないけど、それがいちばん安全確実だった。もちろん、財布も盗られていない。

 ――ずいぶん男気のある人だな。

 僕は、口ひげの彼の怒ったまなこを想い起こしながら心の中でつぶやいた。彼の髪はすこしばかりぼさぼさで、どこかボヘミアン風だ。力強く広がった鼻がいかにも彼の気の強さを表していた。すりを捕まえて戦闘モードに入っていたからかもしれないけど、活きいきとした躍動感とぴりっとした気合いが体全体から感じられた。カンフーの闘士のようだった。

 ホームのチャイムが鳴る。

 さっきの出来事をぼんやり振り返っているうちに、いつの間にか電車は僕の住んでいる街に着いた。僕は急いで降りた。

 空はどんよりとした曇り空に変わっていた。灰色の雲が低く垂れこめ、今にも降り出しそうな気配だ。

 商店街をとぼとぼと歩き、惣菜屋の前で立ち止まった。

 ――ご飯だけ炊いて、コロッケをおかずにするか。

 揚げたてのコロッケのなんともいえない匂いをかいでいるうちに、なんだか食べたくなってしまった。僕はプラスチックのパックとトングを手に取り、どれを買うか品定めしようとした。

 じゃがいもコロッケ、牛肉コロッケ、かぼちゃコロッケ、クリームコロッケといろんな種類のコロッケが並んでいる。今日の特売はかぼちゃコロッケだ。普段の二つ分の値段で三つ買うことができる。だけど、クリームコロッケも捨てがたい。僕は給食で時々出たクリームコロッケが大好きだった。

 ふとパックに重みを感じた。いつのまにかじゃがいもコロッケが入っている。

「今日は手抜き?」

 京香が手にしたトングをぱたぱた閉じたり開いたりさせる。

 いつもはシックなお姉さま風の衣裳で身を包んでいるのに、今日はハートマークを描いたライトピンクのトレーナーのうえに水色のジャンパーを羽織っている。胸のふくらみがハートマークを押し上げ、なんだかはちきれそうだ。

「そんな服を持ってたんだ?」

 僕は目を丸くした。

「高校生の時に買った服なの。まだ着られてよかったわ。――ねえ、そんなふうに見つめないでよ。こんなに胸を寄せあげていたら、見てくれっていうようなものかもしれないけどね」

 京香はおかしそうに僕の腕をはたく。

「ごめん。そんなつもりじゃなったんだけど。大きいなあって思ったからさ」

 僕はうつむいた。恥ずかしかった。

「それがちょっと自慢といえば自慢なんだけどね。こんなわたしでもひとつくらいいいところがなくっちゃ。――この店にはよくくるの?」

「たまにだけど。今日はなんとなく料理を作る気がしないから」

「そんなときもあるわよね。このあいだのお返しに、わたしが作ってあげるわ」

「ほんとに」

「ほんとよ」

 京香の右のえくぼがにっこり笑う。

「ありがとう。それじゃ、ご馳走になろうかな」

 僕は、京香がそういってくれて嬉しかった。

「コロッケはやめにしない。買い物を手伝って」

「もちろん」

 ふたりは肩を並べてスーパーへ向かった。ドラックストアののぼりや書店の雑誌の棚の先をすり抜けるようにして歩く。軽トラックが狭い道路を通り過ぎようとしたので、僕は京香の手を握り歩道の端へ引き寄せた。

「温かい手ね」

 京香は僕の手を頰に当てる。

「そうかな」

「うん、やっぱりあったかい。わたしの手って冷たいのよ」

 京香は彼女の手の甲を僕の頰へ押し当てた。

「冷たいね」

「ほらね」

「温めてあげる」

 僕は京香の手を取って両手でひとしきりこすり、

「左手も貸して」

 と、それぞれの手を温めた。

「ありがとう」

 京香はふっと遠い目する。

「どうしたの?」

「ううん、なんでも。瀬戸君はやさしいなって思って。こんなふうにやさしくしてもらったことなんてなかったから」

 あどけないまなざしになった京香は安心した幼子のようにこくりとうなずいた。

 ――京香も女の子なんだな。

 僕はそう思いながら彼女の顔をぼんやり見つめた。今日は頰紅がいつもよりすこし濃いみたい。僕の視線に気づいた京香が僕に微笑みかける。僕もそっと微笑みを返した。ふたりは手を繋ぎ直し、お互いの体を寄り添わせて歩いた。

「どうせなら、ひとりじゃ食べれらないものがいいな」

 僕は、スーパーの軒先でプラスチックの黄色い籠を取りながら言った。

「わたしもそう思ってたの。一人暮らしだとどうしてもメニューが限られちゃうもの」

「すき焼きにしようか」

「いいわね」

 入って左手にある野菜コーナーで、京香がしいたけやねぎの品定めをして籠へ放りこむ。遥といっしょにこのスーパーに通っていた時もそうだったけど、女の子と二人で夕飯の買い物をしているとなんだか浮きうきしてしまう。穏やかな明日が待っているような、倖せになれそうな、そんな気がする。

「瀬戸君、どれくらい欲しい?」

 京香が肉コーナーの前で僕に訊いた。

「すこしあればそれでいいよ」

 僕はパック詰めになった牛肉を見た。ここのスーパーは肉に関しては外れがない。値段もそこそこだし、鮮度も悪くない。今日の品物もよさそうだ。

「でも、食べるでしょう」

「そりゃ、あればあるぶんだけ平らげるけど」

「ほらね。一キロくらい買っておくわ」

「多すぎだよ。そんなに食べられないよ。余ったらもったいないし」

「いいのよ、余ったらあまったで冷凍しておけばいいんだから」

 京香は中くらいの値段のすき焼き肉を一キロ分、籠へ放りこんだ。

 最後にグレープフルーツを手に取ってレジへ行った。夕方だから行列になっていた。

「あ、万引き」

 京香が声を上げる。レジ待ちの人たちはあたりを見回すわけでもなく、平然を装っている。レジの手前にいた高校生くらいの男の子がポケットからガムを出して、ぶっきらぼうにレジ台に置いた。

「いらっしゃいませ」

 制服のうえにエプロンをつけた女子高生のレジ係りも何事もなかったかのようにお辞儀して、ガムのバーコードを読み取っった。だけど、「百五円です」と言ったかと思うと、怖い顔で男の子を睨み、

「なんでこんなことをするのよ」

 と声を殺してすごんだ。

「関係ねえじゃん。ガムをったからってお前が損するわけじゃねえだろ」

 男の子はそっぽを向いてうそぶく。

「とにかく、もうこないでよ。迷惑だから。あたしたちは終わったんだからね」

「ほんとに勝手だよな」

「終わったものは終わったのよ。――百十円お預かりします。五円のお返しになります」

 彼女はマニュアル通り両手をお腹の前で揃え頭を下げる。男の子は舌打ちをして出て行った。しばらくして、僕たちの順番になった。レジ係りの女の子はずっとうつむいたまま目の縁を赤くしていた。

 会計を済ませて外へ出た。

「彼女の気を引きたいんだろうけど、あんなことをしたらかえって嫌われるのにね。ああいうのは困るわ。無視しようと思っても、文句を言わないわけにもいかないしね」

 京香はまるで自分がからまれたみたいにやれやれといった表情をした。

「死んだ愛が心のなかで腐っているんだよ」

「どういうこと?」

 京香は首を傾げる。

 僕は、いつか遥が言っていた「最善の堕落は最悪」について話した。愛という至高のものが堕落してしまえば、どうしようもない醜悪さをもたらすのだと。愛に混じりけがあれば、その不純物が愛を腐らせてしまうのだと。

 京香はうなずきながら僕の話を聞いた後、

「あれは愛っていうよりは恋ね」

 とぽつりと言う。

「恋と愛の違いはなに?」

 僕は訊いた。

「そうねえ。愛は与えるものよね。恋は奪うものかしら」

「でも、なかなか愛からは入れないよね。人を好きになった時って、どうしてもその人が欲しくなってしまうもん。やっぱり、振り向いて欲しいし、相手にあるものを欲しくなってしまうよね」

「恋ってわくわくして素敵だけど、けっこう身勝手だもの。わがままだっていっぱい聞いて欲しくなるわ」

「それが自然だよ。それでも、相手を倖せにしたいっていう気持ちだってあるわけだし、それが嘘なわけでもないわけだから」

「恋からだんだん愛に変わっていくのかもね。だったら、わたしは人を愛したこともないし、愛されたこともないわ。でも、ひょっとしたら、最善のものなんてはじめからないのかも。――あら、雨」

 京香はつぶやくように言った。細かい雨がアスファルトを濡らしている。僕はリュックから折り畳み傘を出して広げた。

「用意がいいのね」

「天気予報で降るって言ってたから」

 僕は京香をつつむように傘を差し出した。

「ありがとう」

「買い物袋を持つよ」

「いいわ。わたしが持つわ。持ちたいのよ」

 京香は落ち着いたやさしい微笑みを見せる。

 冷たい風が吹く。すこし肌寒い。だけど、この傘の下にいれば、そんなことは気にならなかった。


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