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間違い電話

 

 それから毎日、京香と会っていろんな話をした。

 僕のほうから連絡をして会うこともあれば、京香から電話がかかってくることもあった。マクドナルドでフライドポテトをつまみながらおしゃべりをしたり、街をぶらついたり、映画館へ行ったりして、二人とも遅番のシフトに入った時にはバイトが終わってから飲み屋へ出かけ、夜更けまで飲んだりした。

 京香のしっとり濡れた瞳を見ると、ふと惹きこまれそうになることがある。ふんわかととろけたような気持ちになって、自分でもわけがわからなくなって首を振ったりする。

 恋してるんだろうか。

 こんなふうに想うこと自体、恋している証拠なんだろうか?

 自分でもよくわからない。

 ただたんに、さびしいだけなのかもしれない。彼女といると退屈さがまぎれるから。だけど、どういうわけか京香のことが気になる。どこか憂いを含んだ白い顔が目の前に浮かんで、胸の奥が火照って、逢いたくなってしまう。

 朝の十時くらいに公園へ行き、いつものようにしゃぼん玉を飛ばした。

 つい二週間ばかり前、この公園にかかった真綿色の毛布はその翌日にはほとんど溶けてしまい、翌々日なると片隅の日陰に残った雪もすべて跡形もなくなった。雪だるまのコジロウの残骸も土へ還った。

 幼子おさなごたちが遊んでいる。公園の入口にはチャイルドシートをつけた自転車が並び、集まった母親たちがおしゃべりの花を咲かせていた。

 二歳くらいの男の子がひょっとこの絵を描いた紙凧をひきずりながら地面を走り回る。小さな手に糸を握りしめ、すこし走っては後ろを振り返り、わずかばかり浮き上がった凧を見つめては目を輝かせた。ふっくらとしたしあわせそうな笑顔になった彼は、それからまた張り切って走る。疲れもしらず、飽きることなく何回も繰り返していた。

 しゃぼん玉が風に吹かれる。

 あの朝抱いた京香のぬくもりをぼんやり思い出した。

 ふと、なんともいえない香りが僕の鼻をつような気がして、心臓がことりと動く。京香が笑った時に見せるこまかい白い歯を想い起こした。

 僕はしゃぼん玉のストローをベンチに置き、スマホを手に取った。京香からのメッセージがほとんどだ。去年は遥からのそればかりだったのに。京香が書いてきたのはたわいもない話ばかりだけど、

「会おうよ」

 と、一言だけ送ってくれたものもあった。

 僕は携帯電話の画面をじっと見つめ、それから電源をオフにした。

 自分の気持ちが摑み切れない。

 ひとときでいいから世間との絆を断ち切って気持ちを整理したかった。

 遥に恋をした時は、遥のことしか考えられなかった。朝も、昼も、夜も、四六時中遥のことばかり想っていた。今から思えば、なんだか心が山火事にでもなったみたいだった。余計なことを考えたり、心に定規をあてて自分の気持ちを確かめるようなまねもしなかった。単純だったなと思うし、そんな自分は幼かったのかなとも思う。たぶん、遥に恋した時にはその時の恋のしかたがあって、その次に好きになった人にはまた違った恋のしかたがあるのだろう。僕は遥にしか恋をしたことがなかったから、二回目の恋のかたちをつかみきれていないだけなのかもしれない。

 昼過ぎ、大学の図書館へ行って借りていた本を返し、ついでに書架から夏目漱石の『三四郎』を取り出した。大学一年生の時に友人に勧められて読んでみたのだけど、また読み返したくなった。「迷えるストレイシープ」という言葉が妙に心に残っていた。

 春休みの図書館はしんと静まり返り、閲覧スペースの大きな窓からほんのちょっぴり春をふくんだやわらかな陽射しがさしこんでいる。もうひと月ほどしてサークルの新人勧誘が始まれば、人も多くなるのだろう。

「久しぶりだな」

 肩を叩かれて振り返ると、須藤さんが立っていた。僕に喫茶店すずらんのバイトを紹介してくれたのは彼だった。

「あれ?」

 僕は驚いた。須藤さんはなにも言わず照れくさそうな顔をする。

 彼は上背の高い、骨太のがっちりした体つきをしていた。出っ張った頰骨と大きな鼻が日本人離れした感じを与える。面長の顔にいつでも思慮深そうなまなざしをたたえ、この世の真理を究めようとする中世ヨーロッパの哲学者のような雰囲気を漂わせていた。

「もう帰ってきたんですか。ずいぶん早くないですか?」

 僕は首を傾げた。バックパックを背負って成田からシンガポール行きの飛行機に乗った須藤さんは、四月上旬の科目登録にあわせて東京へ戻ってくるはずだった。

「いやね」

 須藤さんは濃い眉を吊り上げた。

「カルカッタで荷物もパスポートもお金も、全部盗まれてしまったんだよ。それでしかたないから帰ってきた」

「全部? どうやって盗まれたんですか?」

「拉致されてしまってね」

 須藤さんの声も表情も冷静そのものだ。バリトンの美声なので、よけいに落ち着いて聞こえる。

「カルカッタで泊まっていたゲストハウスの前からタクシーを拾って空港へ行こうとしたんだ。どこの国でも見かけるごくふつうの正規営業のタクシーさ。屋根の上にタクシー会社のマークがのっかっていて、運転席に料金メーターがついているやつだよ。空港へ行く時はたいてい大通りを走っていくものだが、私が乗ったタクシーは路地裏の横丁をすり抜けていった。運転手はこっちのほうが近道なんだと訛った英語で陽気に言うものだから、そんなものかなと思って疑わなかった。

 私は道順のことよりも、このインドという国をどう理解すればよいのだろうと、そのことで頭がいっぱいだった。なにしろ、習慣や風俗があまりに違いすぎて不思議の国へ行ってしまったようなものだったからね。どの街角にも野良牛が歩いていて、人間に対してけっこう凶暴に振る舞う。一度ならず機嫌の悪い野良牛に突かれそうになったよ。ぶらぶら道を歩いていたら牛が突進してくるのだから怖い。インド人は牛を聖なる動物として崇めてなにも手出ししないものだから、牛たちはつけあがっているんだな。

 売店へ行ってビールをくれというと、お酒を飲むようなやつは人間じゃないとばかりに凄まじい顔で睨まれるんだが、そのくせ、大麻入りヨーグルトの瓶が冷やしてあって正々堂々と売っている。あの国はお酒を飲むのはタブーなのに、大麻はまったくノープロブレムなんだな。日本とは真逆だよ。わからないことが多すぎて、頭がパンクしそうだった。

 あれやこれやとつらつら考えごとをしている最中、突然、タクシーは路地裏の行き止まりへ突っこんでいった。やられたと焦ったが後の祭りさ。路地裏の家から髭面の男たちが飛び出してきた。多勢に無勢。逃げようにも逃げられない。両手をあげて、大人しくやつらに従ったよ。

 やけに埃っぽいアパートだった。汚いったらありゃしない。入口のところにはどうしてかしらないが卵の殻がいっぱい落ちていて、小さな蝿が飛び回っていた。廊下には七輪が置いてあって、アパートの住人たちが練炭で煮炊きをしていたよ。みんなカレーだ。そこらじゅう香辛料の匂いが立ちこめているなかを両脇を乱暴に摑まれて奥の部屋へ連れて行かれた。

 ドアを開けると別世界みたいにきれいだった。美しいペルシア絨毯が敷いてあって、壁にはシャープの大型液晶テレビが掛かっていた。棚に飾ってある精緻な模様の壷や高級ブランデーもみんなちんけな商売で巻き上げた金で揃えたんだろうな。

 さて、両指に金の指輪を五六個はめたちんぴらの親玉が横柄そうに足を組んでソファーに坐っていた。映画に出てくるようなこてこてのギャングといった風情だったから、思わず吹きだしそうになってしまったよ。ああいうのってほんとうにいるんだな。見るからに悪そうな奴だし、卑しさが顔中ににじみ出ているんだが、怖いという印象はまったくなかった。実は、金だけが欲しいという連中はたいしたことないのだよ。本当の悪というものは別のところに存在する。日本円にして八千円くらいのインドルピーと米ドルの札を三百ドル分ほど素直に差し出してやった。抵抗してもしかたないからな。

 親玉は両手を広げ、大袈裟なゼスチャーでなんだこりゃという仕草をする。日本人の旅行者を捕まえたというので期待していたらしい。どうも日本人はみんな金持ちだというイメージを持っていたようだ。私は貧乏学生の貧乏旅行者にすぎないのにね。ないものねだりされてもどうしようもないから、私もこれだけしかないんだからしょうがないという風に両手を広げたよ。手下が私の財布をあらため、バックパックをひっくり返して調べてみたが、金はない。唯一、金目のものといえば、オリンパスのデジカメくらいかな。パンツも脱がされて身体検査されたが、ないものはない。親分は癇癪玉を破裂させ、犬でも追い払うみたいにしっしっと手を振る。どんな人間でもそうだが、欲得に苦しむ様は見られたものじゃない。醜悪だ。私は、素っ裸のまま地下室へ放りこまれたよ」

「身ぐるみはがされて地下室に閉じこめられるだなんて……」

 僕は呆然とした。須藤さんの話を聞きながらその光景を想像しているうちにくらくらしてきた。

「どこかへ売り飛ばされて鉱山労働でもさせられるのかと思ったよ」

 須藤さんはごく真面目な表情で言い、また右の眉を吊り上げる。

「地下室といっても、完全に真っ暗ではなかっただけましだったよ。天井のほうに小さな明かり窓が一つあった。どんなにささやかでも、光があるのはいいものだ。ただ、匂いがたまらなかった。血と汗と香辛料の匂いが入り混じってむせそうだった。おそらく、あの地下室で殺されてしまった人間が何十人といて、その匂いが籠もっていたのだろう。

 窓から聞こえてくる子供たちのはしゃぎ声が消え、夜になった。ずっとほったらかしにされていたよ。なにもすることがないから、私は瞑想にふけっていた。慌しい旅の日々が続いて瞑想の時間を取れずにいたからちょうどよかった。

 何時なのかわからないが、ともかく夜遅く、誰かが扉をノックした。食事だから起きろとしわがれた老人の声がして、扉の下の隙間からカレーを載せたトレーが滑りこんできた。

『すまないがスプーンをくれないか』

 私はそう頼んだ。なにせインドだから、みんな手で食べる。スプーンがなかったのさ。

『手で食べたほうがうまいぞ』

 老人の声は言った。

『手で食べようとスプーンで食べようと、味は同じだよ。私は手で食事する習慣がないんだ』

 私がそう言っても、

『ここはインドじゃ。手で食べなさい』

 と、とりあってくれない。しかたないから、手でカレーと御飯粒を混ぜて口へ運んだ。

『どうじゃ、うまいだろう?』

 老人が訊いてくるから、

『腹が減ってる時はなにを食べてもおいしい』

 と素っ気なく答えておいたよ。

 カレーを平らげてほっと一息ついていたら、

『お前みたいなやつははじめてじゃ。ふつうは泣いたり喚いたりして出してくれと懇願するものだがな。いったいお前はなにを考えておるのだ?』

 とこう問いかけてくる。

『金がなくなってさっぱりした』

 私は思っていることをそのまま正直に言い、それからこんな会話を交わしたんだ。

『実体のないものを身につけおったのでは気が休まらんものじゃわな』

『そうさ。紙幣なんてただの紙切れだ。一ルピーと印刷してあるから、みんなそれが一ルピーだと思いこんでいる』

『集団催眠にかかっているようなものじゃ。あるいは、呪いかもしれん』

『そんなところだ。おまけに、その一ルピー札とやらを自分のものにするために執着する。それがすべての間違いの始まりさ。そのために人間が動きまわり、争いが起きる。争いが悲しみを生む。それも解きがたいほどの悲しみがだ』

『ただの紙切れを神様みたいに思いこんで崇め奉り、お互いに苦しめあうとは人間は業の深い動物じゃよの。不自由だよの。わしはこうしてその紙切れをいくばくか手にするために、ここに閉じこめられたものたちの番をしている。まったく因果じゃ』

『そのいくばくかの紙切れをすべて手放せば、因果も消える』

『さあどうかな。わしはそれほど高い境地には達しておらん。解脱もできずに犬死するのが関の山じゃて』

『たしかにすべてを超越するのは至難の業だが。私は己の愚かさすら十全に認識していない』

『わしは老い先ももう短い。来年まで生きてはおれんだろう。今度生まれ変わったら、もっとましな生き物に生まれたいものじゃが、とはいえ今生で罪を作りすぎた。来世も同じことを繰り返すのじゃろう。同じ過ちを繰り返すだけ――』

 そこでふっつりと老人の声が途絶え、風がさっと吹きこみ、木の扉が軋みながら開いた。私は急いで外へ出て老人の姿を確かめたのだが、どこにも人影は見当たらない。私はこっそり階段をのぼって、ちんぴらの館から逃げ出したんだ」

 須藤さんは喉が渇いたと言い、休憩室の飲水器のところへ行こうと僕を誘った。

「その老人はほんとうにいたのですか? なんだか幽霊みたいですね」

 僕は歩きながら小声で聞いた。不思議な話だ。

「わからない。私も夢でも見てたのではないかと思って地下室を振り返ったが、カレーの皿はきちんとそこに残っていた。これが老人が実在したという状況証拠になるかな。ただ、老人の声を聞いたのは確かだが、姿まで見たわけじゃない。だから、わからないとしかいいようがない」

「それにしてもお金が全部なくなってさっぱりしただなんて――須藤さんらしいかもしれないけど」

「お金があるから余計なことを考えてしまうんだ。なかったらなにも考えなくてすむ」

「でも、お金があるからインドまで行けたんですよね」

「だからこそ、余計なことを考えてインドくんだりまで行って、余計なことをしたのだよ」

 須藤さんは、わかるかなというふうに眉を吊り上げた。僕はわかるような気もしたけど、はっきりとは理解できなかった。須藤さんは飲水器の足踏みペダルを踏んで冷水を出す。ひと口飲んだ彼はすっきりしたと言い、ペダルを踏んだまま僕に譲ってくれた。気がつかなかったけど、須藤さんの話を聞いているうちに、僕の唇はからからに乾いていた。

「その家を抜け出してからどうしたんですか?」

 休憩室のソファーに腰掛けて僕は訊いた。

「裸のままだったから、とりあえず服を盗んだよ。バルコニーまでよじ登ってそのへんに干していたやつを失敬した。ずぼんがだぶだぶだったが、文句は言えない。それからずいぶん道に迷いながら夜通し歩いて、朝の十時くらいに日本領事館へ行ったんだ。

 とりあえず事情を話して、パスポートを再発行してもらうことにした。これがなくてはカルカッタから移動できない。パスポートがあろうとなかろうと、私はこうして存在しているというのに身動きがとれないとはなんとも不自由なものだが、いたしかたない。それでパスポートはなんとかなったのだが、問題は金だ。領事館で貸してもらおうと思って交渉してみたものの、そんな予算はないと突っぱねられてしまったよ。無一文のバックパッカーの援助なんていちいちしてられないから、当然といえば当然かもしれないがな。国やお上なんて頼りにしちゃいけないということがよくわかった。支配者の視点からみれば、私なんぞ有象無象の虫けらにすぎない。それはそれでいいのだが、有象無象の虫けらは虫けらなりに自分自身の手でしっかり生き抜かないとな。

 領事館からまた歩きさ。二時間くらいかけてバックパッカー用のゲストハウスへ戻った。

 インドにしては居心地のいい宿だったよ。七〇年代にヒッピーをやっていた白人がインド人の女性と結婚して開いたところなんだ。宿の主人は典型的な草好きで、しょっちゅうガンジャを吸っている。気持ちのよいきれいな庭があるんだが、その一角の家庭菜園で麻を育てて、毎晩庭でマリファナパーティーさ。インドは大麻公認だからそんな旅人ばっかり集まってくるのだけど、草を吸ってだべっているだけだから、騒がしいかもしれないが害はない。飲み会みたいなものだ。

 主人はヒンズー教の修行をしたことがあるらしくて、なんでも硬くなったあそこを使って二十五キロの小麦袋を持ち上げられるという噂だ。いささか浮世離れしていてイカれた感じではあるけど、人は好かったよ。拉致されて身包みはがされたと告げたら、動けるようになるまでここにいていいからといって、要らない服をくれた。今まで私のような目に遭った人間の世話を何度も焼いているから慣れっこのようだったが、ありがたかった。

 ベッドに寝転んで親に国際為替で送金してもらおうと考えていたら、たまたま相部屋だった旅人がお金を貸してくれることになったんだ。大助かりだ。それですぐに飛行機のチケットを手配して、おととい東京へ帰ってきたわけだ」

「旅行というより冒険ですね」

 僕はなんだか感心してしまった。たくましい。

「まさしく冒険だ。だが、なんとかなるものだよ」

「それにしても、命が助かってよかったですよね」

「まあな、殺されてもおかしくなかった。リスクは承知のうえだったが、やはり命は惜しい。まだまだやりたいことがある。売り飛ばされずにもすんだしな」

「鉱山労働ですか」

「毎日カレーばかり食べさせられて、じめじめした坑道でこき使われるのはごめんだな」

 須藤さんは澄ました顔で冗談を言う。

「ところでお金って、どこの国の人に借りたんですか。日本人ですか?」

「もちろん日本人さ。さすがに外人に金を貸してくれなんて言えないからね。いい人だよ。十万円貸してくれっていきなり言ってすんなり貸してくれる人なんてなかなかいない。私だったら断っているね。騙されてるんじゃないかと勘繰る。親切な彼のお陰でなんとか帰ってこられた。ほっとしたよ」

「僕も須藤さんが無事に帰ってきてほっとしました」

「瀬戸、ところでバイトはどうだ?」

「順調にやってますよ」

 僕はふっと京香の笑顔を思い出し、思わずうつむいた。

「すずらんの可愛い女の子と仲良くなったみたいだな」

 須藤さんはにやりと笑う。

「そんなんじゃないですけど。――須藤さんはいつバイトに戻るんですか?」

「今のところわからないな。明日から二週間くらい土方のバイトへ行ってくる。なにせ懐がすっからかんだ。借金も返さなくてはいけない。マスターには悪いが喫茶店のバイトではまとまったお金を稼げないからな。帰ってきたらまたゆっくり話をしよう。旅の話はまだまだあるんだ。ぜひ聞いてもらいたいね。マスターが言っていたように、やはり一度は旅に出るべきだよ。夏休みになったら、またどこかへ出かけようと思う。旅はいいぞ。知識が広がる。今回みたいに決していいことばかりではないが、それがまた勉強になる」

『プラトン ~ダイアローグの追究~』というタイトルの分厚い本を抱えた須藤さんは、じゃあなと言って立ち上がり、休憩室を出て行った。難しそうな本だけど、土方のアルバイトの合間に読むつもりなのだろうか。須藤さんのことだから、肉体労働をしてどんなに疲れきっていても夜は本を開いて勉強するのだろう。

 彼の背中を見送った僕は、貸し出しカウンターで手続きをして図書館を出た。

 学校から駅へと続くなだらかな坂をくだりながら、スマホの電源を入れた。京香からのメッセージは入っていない。学校の友人から二件ほどメッセージが入っていたので適当に返事を出した。

 スマホをいじっている間になんとなく京香へ電話してみたくなり京香の欄を呼び出して通話ボタンを押した。だけど、ふと気づくと、画面に出ていたのは遥のそれだった。

 慌てて切った。

 さいわい、繋がる前だったからよかった。

 電話が繋がってしまえば、着信記録が遥の携帯電話に残ってしまう。妙な負担を遥にかけたくなかった。もっとも、僕の電話番号なんてもう消去したかもしれないけど。

 動悸がとまらない。

 どうして遥の番号を押してしまったのだろう。

 遥と京香の欄が隣同士というわけでもない。ふと考え事をした隙に、指が無意識のうちに動いてしまったようだ。

 ――やっぱり、僕の心は遥を求めているのかな。

 胸の奥で独り言を言った。

 ため息をついて空を仰ぐと、高層マンションの向こう側に飛行船が浮かんでいた。たぶん、僕は遥のことを一生忘れないのだろう。忘れてはいけないとも思う。だけど、今こんなふうにさびしくしている現実と終わってしまった恋とは、きちんと区別をつけなくっちゃ。それがけじめだから。そうしないと、かえってふたりの思い出に申し訳ないから。

 流れる雲をぼんやり眺めた。

 どこへ行く雲なんだろう。

 雲は形を変えながら、いったいどこへたどり着くのだろう。

 飛行船は向きを変え、ゆっくり遠ざかっていった。


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