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雪の朝


 震えて目が覚めた。

 ――寒い。

 遥のことを考えながら、いつの間にかまどろんでしまった。部屋のなかにいるのに、吐く息が白い。あの夢の余韻と、それから、あの日の思い出のせつなさにたゆたうようだった。

「瀬戸君、ほら、雪……」

 弓岡さんはベッドのうえにちょこんと坐り、外を眺めている。丸めた背中がさみしそうだ。まるで雪の数だけ悲しみを数えているみたい。そんな姿をいつかどこかで見たことがあったような、ふとそんな気がした。

「どうりで夕べは寒かったはずですね。耳がちぎれそうだったし。――エアコンをつけましょうか」

 僕は立ち上がり、テレビの上に置いてあるリモコンを手に取った。

「べつにいいわ。このまま外を眺めていたいの」

 弓岡さんは曇りかけた窓ガラスを白い指先で拭い、

「きれいね」

 と言って目を輝かせる。

「雪はいいですよね」

 僕は相槌を打った。

「ねえ、瀬戸君もこっちへきて、外を見てごらんよ」

 弓岡さんは振り返って僕を手招きする。僕はベッドへあがり、彼女の隣に坐った。

 羽毛をまき散らしたようにぼた雪がゆっくり舞い降りる。雪が音を吸い取ってしまうから、あたりはとても静かだ。表の道路も向かいの家の屋根も庇も、みんな真っ白。昨日とはまったく違うところにいるみたい。

「雪はぜんぶを隠してくれるのね。汚れた世界がきれいに見えるわ」

「どうしてそんな悲しいことを言うんですか」

 僕は思わずそう訊いて、弓岡さんの横顔を見つめた。彼女の瞳は潤んでいる。軽く顔を揺らしたら、涙の滴がこぼれそうだった。

 僕は、なんとなくしんみりしてしまった。よりどころのないおぼつかなさが心を濡らす。寒い霧に包まれてひとりぼっちで彷徨さまよっているみたい。そっと肩を抱くと、弓岡さんは僕の胸に頰を預けた。

「わたしが汚れているから、世界も汚れて見えるのよ。ただ、それだけ。――ゆうべの赤ちゃんは、瀬戸君が拾って交番へ届けなかったらどうなっていたと思う」

「いずれにしても助かっていたと思いますよ。誰かが交番へ連れて行って、里親になってくれる人に引き取られるか、施設へ行っていたでしょうね」

「そうよね。死んじゃうなんてことはなかったわよね。でも、ほんとうに親切な人に引き取られたらいいけど、もしそうでなかったら、あそこで死んだほうがましだったかもしれないわよ」

「どうしてですか」

「誰も守ってくれる人がいない子供は、誰かの道具になって生きるしかないからよ。それもろくでもない人のね」

 弓岡さんは外の雪を見つめたままだ。

 まなざしに悲しみとも怒りともつかないゆらめきが宿っている。あるいは、癒しようもない諦めといったほうがいいのだろうか。

 僕はなにかを言いかけて、口を閉ざした。それ以上はなにも訊けない。思い出したくもない傷口に触れてしまうようで、怖かった。

「まっさらなわたしには戻れないのよ」

 弓岡さんはぽつりと言う。

 僕は黙って弓岡さんの手を取った。冷たい。僕はまたしんみりしてしまった。弓岡さんは悲しそうに目を瞬き、長い睫毛をひっそりさせた。

「寒くないですか」

「やさしいのね。――だけど敬語を使うのはやめて。他人行儀でよそよそしいわ」

「すみません」

「だから――」

「ごめん」

 僕がそう言うと弓岡さんはかすかに微笑んだ。

「うん、そのほうが男らしい。京香って呼んで。――すこし寒いかな」

 僕が掛け布団を彼女の背中にかけると、京香は瀬戸君も寒いでしょうと言いながら、僕の背中にもかけてくれた。

「仲のいい兄弟みたいだね」

「京香、兄弟はいるの?」

「――いたんだけど、もういなくなっちゃったの。ひとりぼっちだわ」

 京香はそっとまぶたを閉じる。僕は、悲しみを抱きとめるように両手でしっかり彼女を抱きしめた。丸襟のブラウスの襟元から年上の香りがかすかに立ち上る。冷えた体がすこしずつ温まってきたようだ。冷たい色をしていたうなじに血色が戻った。体がぬくもって気持ちよくなったからだろう。京香はうとうとと舟を漕ぐ。

 降りしきりる雪を見つめた。

 穢れのない雪。

 清浄な雪。

 明日になればすっかり溶けて消えてしまう。だからこそ、きれいなのかもしれないけど。

 静かな雪の音だけが、僕の心に鳴り渡る。

 遥以外の誰かを抱きしめるだなんて、考えたこともなかった。いろんな想いが心でまざりあう。こうして誰かを抱きしめられるのはいいものだなとぼんやり思った。やさしくすると心の底が暖まる。今日も生きてゆけそうだ。

 遥の顔を思い浮かべると、ふたりの暮らしが遠い過去のできごとだったような、まるで童話のできごとみたいに夕焼けの向こう側にあるような、なぜかそんな錯覚におちいった。おそらく、こうして僕はすこしずつ現実を受け容れていくのだろう。そうするよりほかにしようもないのだから。せつないけど、それしかできないのだから。遥ばかりか、自分自身さえも裏切ってしまったようで、胸の底が疼く。いつか、ほほえみながら、なつかしみながら、このいたみを思い出す日がくるのだろうか。

 ふと、京香の話を聞いてみたいなと思った。

 育ちがいい割りにはずいぶん苦労してきたみたいだし、かなり孤独なようだけど、いったいどんなひとなんだろう。

 京香はうっすら眼をあけ、

「わたし、眠てた?」

 とまぶたをこする。

「すこしだけね」

「ごめんね」

「眠かったら、寝ればいいじゃない。横になる?」

 僕の問いかけに、京香は首を振った。

「瀬戸君――」

「どうして京香は僕を君付けで呼ぶの? べつに責めてるわけじゃないけど」

「だって」

 京香は整った唇の端をおかしそうに曲げ、くすりと笑った。

「とりあえず男の子を君付けで呼んでおいたら、甘やかしてくれそうな気がするじゃない」

「そういうものかな」

 僕は首をひねった。

「そんな感じがするの」

「好きに呼んでくれていいけど」

 ゆうちゃんと呼ばれたら、どうしても遥を思い出してしまうから、僕としても君付けのほうがいいような気がした。

「それじゃ、瀬戸君に決まりね。あなたにやさしくしてもらっていた女の子は、きっとしあわせだったのね」

「どうして」

「なんかね、安心したの。この人なら絶対わたしを傷つけるようなまねはしないだろうって」

「でも、僕は彼女を傷つけたよ」

「傷つけてなんかいないわ。わかるもの」

「そうだといいんだけど」

「たぶん、どうしようもなさすぎて、瀬戸君がかばいきれなかっただけよ。あるのよ、世の中にはそういうことって」

「公園へ行ってみない。きっときれいだと思うよ」

 僕は話題を変えたくてそう言った。

「余計なことを言っちゃったみたい」

 京香はぺろりと舌を出す。

「そんなことないよ」

「でかける前に朝御飯を食べたいな。お腹が空いたわ」

「それじゃ、僕が作るよ」

「あら、料理をするの?」

「毎日してるよ。トーストとハムエッグにするね。あと、みかんの缶詰があるから、ヨーグルトみかんも作るよ。それで足りる?」

「十分よ。わたしも手伝うわ」

「僕がやるから坐ってて」

 僕は流し台に立ち、ハムを厚めに切った。

 フライパンに油をたっぷり入れてじゅうじゅう焼く。心が弾む。

 一人で作る朝食はさみしかった。張り合いがないものだから、つい適当に作ってしまう。ラジオをぼんやり聴きながらおいしくもない料理を一人で食べて、一人で片付けて――ただそれだけ。だけど、誰かのために作る食事は作り甲斐がある。

「できたよ」

 僕はまだ雪を眺めている京香を呼んだ。

 折り畳みのちゃぶ台を出して朝食を並べ、小さなポットに紅茶のティーバッグを二つ入れてお湯を注いだ。湯気が楽しそうに立ちのぼる。気合を入れすぎてハムエッグがすこし焦げてしまったのだけど、それでも、京香は右のえくぼを見せながらおいしそうに食べてくれた。

 ドアを開けると、寒風が吹きこんできた。刺すような冷たさだ。

「やっぱりやめようかしら」

 京香は首をすくめる。

「せっかくだから行こうよ。あ、そうだ、マフラーを出すよ」

 僕は履いたばかりの靴を脱いで部屋へあがり、タンスを開けた。いつか遥が編んでくれたマフラーだ。一瞬、この部屋でマフラーを編んでいた遥の姿が脳裡に甦る。僕のために編んでくれたのに、こんなことをしていいのだろうか。とても残酷なことをしているのかもしれない。だけど、

 ――これでいいんだ。

 と自分にそう言い聞かせ、玄関で待っている京香の首に遥のマフラーを巻きつけた。

「ありがとう。マフラーがあるだけでずいぶん違うものね」

 なにも知らない京香はにっこり微笑んだ。

 雪道はしゃりしゃりと音がする。子供の頃に帰ったようで、なんだか楽しい。道端に止めてある車はすっかり雪をかぶってうずくまり、車の轍が凍りついてシャーベットになっていた。風が音を立て、電線が唸る。ふと見上げると、電線に積もっていた雪の塊がばさりと落ちてきた。

「危ない」

 僕は京香を抱きとめた。彼女の目の前で雪の塊が砕ける。

「びっくりした」

 京香は声を上げて朗らかに笑い、

「ねえ、どうしたらしあわせになれるのかしら」

 と僕の腕をすっと取りながら言った。

「まずは心を秩序だてることなんだろうね」

 僕はなんとなく言った。

「心がぐじゃぐじゃだったら、なにをしても失敗ばかりすることになるよね。心が落ち着いて穏やかだったら、たとえいろんなことがあっても、最後にはうまくいくと思う」

「冷静になるってこと?」

「もちろんそれもたいせつだけど、自分の考えを持つことがいちばん大事なんじゃないかな。しっかりした考えを持つことができたら、心に秩序が生まれるし、そうなればなにかに揺り動かされることも少なくなって、自然と心も落ち着くんだと思う」

「瀬戸君の考えはなに?」

「さあ、なんだろう? ――愛することかな。むずかしいけどね」

「ねえ、憎んでる人も愛さないといけないと思う」

「そうしなくっちゃいけないんだろうけど、なかなかできることじゃないよね。それに、相手がどういう人かにもよるよ。悪意の塊みたいな人って、実際いるから。そんな悪人まで愛するのって、キリストとかお釈迦様とかじゃないとできないよ。だって、悪い人を愛したらとても傷つくことになるもん」

「そうかもね」

「『蜘蛛の糸』っていう小説を読んだことがある?」

 僕は訊いた。

「中学生のとき、教科書で読んだかな。お釈迦様の掌に乗った蜘蛛が、むかし命を助けてもらった大泥棒のカンダタへの恩返しに地獄へ糸を垂らして極楽へあげてあげようとする話よね」

「糸をよじ登った大泥棒のカンダタは、彼の下から糸につかまって登ってくる地獄の人々にこう言うんだ。『こら、罪人ども。この蜘蛛の糸はおれのものだぞ。お前たちは一体誰にいて、のぼって来た。下りろ。下りろ。』ってね。それで糸が切れて、カンダタはまた地獄へ落ちてしまった。お釈迦様は悲しそうな顔をしてしまう」

「わたし、よくわからないわ。カンダタのために蜘蛛は糸をおろしたのよね。だったら、彼のものじゃない」

「そういうエゴイズムは極楽じゃ許されないんだよ。やさしさの足りない人は入れてもらえないんだ。僕も子供の頃に読んで、その時は怖い話だなって思っただけだった。だけど、近頃はこう思うんだ。僕もあの大泥棒と一緒なのかもしれないって」

「どうして」

「僕にだってエゴイズムはあるもの。自分がいちばん大事だって思っているし、人を蹴落としてでも自分さえよければそれでいいっていう気持ちもあるし。とくに、さみしい時ってそんなふうに思ってしまうんだ」

「わたしも自分がいちばんだいじだわ。わたしを守れるのはわたししかいないんだもの。でも、許されないのね」

「極楽とか、天国とかそういったところではね。この街には、多かれ少なかれあのカンダタみたいな人たちがひきめきあっているんだよ」

「しあわせになるのってむずかしそうだな」

「考えすぎはよくないけどさ」

 公園から子供たちのはしゃぎ声が響いてくる。

 まるで祭りの日のようだ。

 たしかに、今日はお祭りなんだろう。東京の街に雪が積もるだなんてめったにないことだし、テレビで観たり、お話で聞いたりして、雪ってどんなものなんだろうと胸をわくわくさせていたものが、現実に降ったのだから。子供たちにとっては、空がプレゼントしてくれたかっこうの遊び道具だ。

 公園の入口に大きな雪だるまと小さな雪だるまが一つずつ並んでいる。子供たちは歓声をあげながら雪合戦をしていた。

「懐かしいなあ」

 京香は白い息を弾ませ、

「おじいちゃんが札幌だったから、正月で里帰りしたときにいとこたちと雪だるまを作ったり、雪合戦をして遊んだの。かまくらも作ったわよ。ねえ、雪だるまを作ろうよ」

 と少女のようにはしゃいだ。

「面白そうだね。初めてだよ。僕は作ったことがないんだ」

「どうして?」

「僕の地元はちらほら舞うくらいしか降らないもの。それも年に二三回だけ。あそこあたりがいいんじゃない」

 僕は、まだ手つかずの雪がそっくり残っている公園の片隅を指した。

「きれいに作ってあげましょ」

 僕たちは雪のボールを作ってまっさらな雪の上に転がした。一回転するごとに雪はどんどん膨らむ。ある程度の大きさになってから、ふたりで一緒に転がした。

「せえの」

 上段に積む雪の塊を一緒に持ち上げて、胸の高さくらいの雪だるまをこしらえた。京香はせっせと目鼻をつける。時間がかかるかなと思ったけど、案外あっさりできてしまった。

「どんな名前にする?」

 僕が訊くと、

「ムサシ、かな」

 と、京香は考えこんだ風に人差し指を頰に当てる。

「ムサシ?」

 僕は思わず聞き返してしまった。

「それじゃ、コジロウは?」

「剣豪の名前ですか。ずいぶんほんわかとした剣豪だなあ」

 顔は垂れ目に描いていた。しかも太鼓腹だ。剣術の決闘にはどうも向いていないような気がする。

「どちらでも好きなほうでいいわよ」

「それじゃ、コジロウのほうがいいな。ムサシってほど強くなさそうだし」

「あら、コジロウだって強かったわよ。ムサシに挑戦したくらいなんだもの」

 先に京香とコジロウのツーショットを撮って、僕と彼の記念撮影をした。

「はい」

 僕に携帯電話を返そうとする京香の目がいたずらっぽく笑っている。

「コジロウ、待たせたな」

 京香は時代劇のような声色を作った。

「はあ」

 僕はきょとんとしてしまった。

「それっ」

 京香は僕に体当たりする。僕は倒れてコジロウにめりこんでしまった。作ったばかりの雪だるまが崩れた。

「やっぱりムサシの勝ちよ。はい、チーズ」

 彼女は僕の携帯電話を構える。僕は仰向けに倒れたままとっさにピースサインを作った。


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