遠い旅
狂ったハープをかきならすように、風の音だけが唸っている。
素足の少女がどんよりとした曇り空の浜辺に立っていた。今しがた海からあがってきたばかりのように、全身ずぶ濡れだ。肌に貼りついた白いワンピースがほっそりとした体の線を浮かび上がらせ、小さな乳首が透けて見えた。荒い波が押し寄せては細い足首を洗う。禍々《まがまが》しい夕闇が雲の割れ間にのぞいていた。
「遥」
僕は叫んだ。
やっと逢えた。
ずっと待っていたんだ。
嬉しくてたまらない。思わず遥へ駆け出した。
「わたしたち、わかれたのよ」
遥は木琴のような声を響かせる。僕は思わず立ち止まり、
「そうだね」
とうなだれた。
抱きしめたい。抱きしめてキスしたい。でも、できない。
「こっちへきたらだめ。わたしがゆうちゃんをだめにしてしまうわ」
遥は瞳を翳らせた。心なしか、別れた時よりやつれたみたい。
「そんなことないってば」
「どうしようもないぬかるみにいるの。わたしにかかわったら、ろくなことにならないもの」
「遥のことしか考えてこなかったんだよ」
僕は叫んだ。
胸が痛い。
心が痛い。
泣けてしかたない。
別れてから今まで、つらい想いをじっとこらえてきたのに。泣かないように踏ん張ってきたのに。
「さよなら」
遥はさびしそうに手を振る。
ゆらゆらと潮が満ちる。
遥の体が海へ沈む。
僕は呆然と見送るほかなかった。大きな波が遥の姿をかき消してしまう。吹き荒ぶ風の音だけが心に残った。
夢だった。
頰を拭うと手の甲に涙がついた。
――ほんとうに泣いていたんだ。
うつろな気持ちのまま僕はワンルームマンションの部屋を見渡した。カーテンはぼんやりと明るくなっている。朝になったようだ。
スチールパイプのシングルベッドで弓岡さんが眠っていた。僕は誰か泊まりに来た時のために買っておいた安物の布団を床に敷き、薄い毛布にくるまっていた。
あの後、酔って寝こんだ弓岡さんがどうしても目を覚ましてくれなかったから、しかたなく負ぶったまま部屋へ連れてきた。弓岡さんは細身だし、そんなに重いほうではないはずだけど、ぐったりした人間は全体重をだらりとかけてくるので、かなり重く感じた。ずり落ちかける彼女を何度も背負い直してようやくのことで部屋へたどり着き、ベッドに転がして毛布と布団をかけてあげると、弓岡さんは安心したような顔を見せて子供みたいにむにゃむにゃと寝言を言う。さすがに疲れ果てた僕は寝巻きに着替える余裕もなく、自分の布団を整えるとすぐに眠りに落ちた。
しばらく、夢の光景を思い返した。そうしなければ、夢の常で忘れてしまって、二度と思い出せなくなってしまうだろうから。もう夢でしか逢えないのだから。
不意に、なんとも言いようのないさびしさが体を包む。部屋が寒いから、というばかりだけではないみたい。
夢のなかで、僕は遥とのつながりを求めた。
宝物を探し求めるようにしてふたりで築いた小さな宇宙の扉をもう一度開け、ばらばらになった心を甦らせたかった。たいせつなものをふたりでわかちあって、生きていきたかった。そうしていけない理由は、なんにもないと思う。
でも、遥はそれを断るよりほかに術がなかった。海の底に深く沈んだ貝のように、殻のなかへ身をひそめるしかなかった。それが自分を守ることなのか、さらに傷つけることなのか、わからないまま。
絆を求めれば求めるほど、さみしさが募る。なにかが足りなくて、大切なものが足りなくて、心に滴がぽとりと落ちる。その大切なものは、たぶんやさしさなんだろう。もしかしたら、さみしさはやさしさが足りなくて生まれるものなのかもしれない。やさしくされたいという願いが満たされないだけではなくて、やさしくしたいという想いもかすれた音を立ててからからと空回りしてしまう。
夢の遥はほんとうの遥なのだろうか。
それとも、僕の心が描き出した悲しみの幻影に過ぎないのだろうか。
たぶん、幻なんだろう。ほんとうの遥が僕の夢に現れるはずがないわけだし。それでも、僕は心のどこかで、本物の遥が現れたのだと思いたがっていた。
ふと、高校の頃、遥といっしょにお城の公園へ行った時のことを思い出した。県の教育委員会が募集していた中国への高校生研修旅行の面接の帰りだった。
研修の内容は、五泊六日で上海、無錫、蘇州を巡り、日本語を勉強している中国の高校生たちと交流するというものだった。中国とじかに触れ合ってみようとポスターには書いてあった。研修旅行の費用はすべて県の負担で無料とのことだったから、遥を誘ってみた。僕は中国にとくに興味があったわけでもないし、『三国志演義』と『西遊記』を読んだくらいだったけど、外国へ行ったことがまだなかったから、外の世界を見るいい機会だと思った。遥は、僕が行きたいのならと言っていっしょに面接を受けてくれた。
「佑弥君、ホック」
廊下で順番待ちをしていた時、遥は僕の喉元を指した。高校生になってから、僕の呼び名は瀬戸君から佑弥君へ変わっていた。
「いけない。忘れてた」
普段、僕は学生服の詰襟のホックを外していた。中学の時は指導が厳しかったからきちんととめていたのだけど、僕が通っていた県立高校の教師はいちいちそんなことで注意しなかったから、まったくとめなくなった。僕の背が伸びたぶんだけ、学生服は小さくなった。襟をとめると窮屈だし、首に触れるとくすぐったかった。
「だめよ。これくらいちゃんとしなくちゃ。だらしなかったら、一発で落とされちゃうわよ」
遥はしょうがないなと唇を尖らせ、ホックをとめてくれた。
面接でどんな受け答えをしたのかは、もう覚えていない。
中国とかかわりがあったり興味のある人なら、自分の想いや考えを熱く語ることもできたのだろうけど、僕はただ漠然と行ってみたいと思っただけだったから、単純にがんばりますみたいなことを言ったのだと思う。面接の準備をなんにもしていなかった遥は志望動機もうまく話せなくて、しどろもどろになって適当に答えたそうだ。
土曜日の三時過ぎ、面接会場の高校を出た。
天気は五月晴れ。
まっさらな雲がぽっかり浮かぶ気持ちのいい午後だった。
官庁街のビルディングの谷間をすり抜け、銀のオブジェが飾ってある県立美術館の前を通り過ぎ、僕たちは広々としたお堀端へ出た。レンガを敷き詰めた歩道を肩を並べて歩く。お堀端沿いの道には架線へポールを上げた路面電車がゆっくりカーブしながら走り、鈴を軽やかに響かせる。流れる車は素知らぬ顔で路面電車を追い越していった。
そよ風が街路樹のしだれ柳を吹き抜け、遥の黒髪をやわらかに揺らす。セーラー服の白がまぶしいから、僕は学生帽を目深に被りなおした。ちょっぴり照れくさくって、心がぽかぽかした。
つがいの鴨がお堀をすいすい泳ぎ、小さな波紋を水面に曳く。橋を渡ってどっしりした大手門をくぐり抜け、大きな石垣沿いのなだらかな坂を登った。天守閣の周りをぐるりと巡って公園のベンチに腰掛けた。遥と僕の隙間があと五センチ縮まったら恋人になれるのかなあ、なんて思いながら。僕たちの後ろで、ライトグリーン色した紫陽花の花びらがほころび始めていた。
「だめかなあ。あれじゃ受かりっこないよな。面接の前にもっといろいろ考えておけばよかったよ」
僕は青い空を見上げた。飛行機雲がうっすら筋を引いている。どこへ行く飛行機なんだろう。
「さっきからずっとそのことを考えていたのね。だめでもいいじゃない。だめでもともとなんだから」
遥は僕の顔を見て、
「いいお日さまね」
と澄んだ声で言い、気持ちよさそうに目を細めた。
「なにがなんでも行ってみたいというわけでもないし、しょうがないか」
「そうよ。わたしたちが合格したら、本気で行きたがっている人に悪いわ」
「それもそうだね」
面接で緊張していた余韻が残っていて、いささか心が力んでいたのだけど、遥のその言葉でなんだかどうでもよくなってしまった。
「高校を卒業したら、東京へ行こうと思うの」
遥はぽつりと言う。
「やっぱりそうなんだ」
僕がうなずくと、遥はくすりと笑った。
「わたしたち、お互いに心の読みあいをしてるみたいね」
遥のことだったらなんでもわかるんだよと言いたかったけど、恥ずかしくて言えなかった。遥が家を出たがっているのは、前から知っていた。行くのなら東京だろうとうすうす勘付いていた。
「佑弥君は高校を出たらどうするつもりなの?」
「僕も東京へ行こうと思うんだ」
「いっしょね」
「東京って、どんなところなんだろう」
テレビでしか観たことがない。初めて行ったのは大学受験の時だった。
「たぶん、広すぎて、人が多すぎて、摑みどころがないと思うわ。中二の時に東京の親戚の家へ遊びに行ったんだけど、びっくりしちゃった。どこもかしこも建物でびっしり埋まっているし、電車はいつでも人がいっぱいだし、渋谷だとか新宿なんて夜遅くまでまるでお祭りみたいに人が集まっているのよ」
「うまく馴染めるのかな」
「さあどうかしら」
「それでも行きたいの?」
「八方ふさがりだもの。このままだったら、家を飛び出すか、首をくくるかのどちらかしかないと思うわ」
「死ぬくらいだったら、出たほうがいいよ」
「わたしもそう思うの」
遥はうつむいた。興味のない中国へ行こうと誘って遥がついてきたのは、どこか遠くへ行ってみたいからなんだなと思った。
「東京へ行けば楽しいことがいっぱいあるよね」
気分を軽くしようと思った僕がそう言うと、
「そんなことはないわ」
と、遥はきっぱり首を振った。
「どうして?」
「神父さんが言ってたの。『ふるさとを愛する人は弱い人である。どこへ行ってもふるさとと同じだと思える人は強い人である。しかし、ふるさとにいようと、どこにいようと、流謫の地だと思える人こそ完璧な人である』って」
「るたくってなに?」
「流刑地のことよ。この世は存在の流刑地なの。どこへ行っても苦しみからのがれることなんてできないわ。自分の愚かさに気づかず、神さまの愛を裏切って過ちを繰り返してしまうのよ。そうして、自分自身を苦しめてしまうのよ」
「それじゃ、どうして東京へ行こうなんて思うの」
「自分を変えられるかもしれないから」
「すくなくとも、ここにいるよりはましだものね」
「ここにいたら、なにも変わらないもの。変えようもないし」
「僕もそう思う」
遥は、なにかを変えようとしてこの街へ出てきた。僕もそのつもりだった。僕の家には居場所がなかったから。だけど、遥はここでも躓いてしまい、僕はそんな遥を支えきれなかった。遥は、今もこの街のどこかで遠い旅を続けているのだろうか。