やわらかい掌に夢一匁を握り
外は木枯らしが吹いている。薄い氷の膜が張ったみたいに頰がぴんと張る。風が鉋をかけるようにして酔いの火照りを剝ぎ取ってくれるから、心地良い。
焼き鳥屋の扉を閉めた弓岡さんはあははと意味もなく笑い、足元をよろけさせる。
「送っていきますよ」
僕は弓岡さんの腕を支えた。かなり酔っていて危なげだ。乱れたコートの裾からふくらはぎがのぞく。太すぎもせず、細すぎもせず、ちょうどいいくらいのきれいな形をしていた。
「うん、お願いするわ。久しぶりに酔っ払っちゃった」
弓岡さんは声をかわいく弾ませる。
ふと、こうして腕を取っている相手が遥だったらどんなにいいだろうと思ってしまう。遥に悪いことをしているような気がしないでもない。だけれど、そんなふうに思ってはいけないのだろう。あの恋はもう、終わったのだから。終わったことにしたのだから。
弓岡さんはいたって陽気だ。
「どっちに住んでいるんですか?」
僕がそう訊いても、
「シュートっ」
と、はしゃぎながら叫んで道端に転がっていた空き缶を蹴り、
「南口のほうですか?」
と尋ねても、
「あっちだったかな」
と、あてずっぽうに方角を指す。
「ねえ、瀬戸君は人は生まれ変わると思う?」
弓岡さんが組んだ腕をぎゅっと締めるから、彼女の乳房が僕の二の腕に押し当たる。遥のそれよりも、ずっと大きくて柔らかい。どうしていいのかわからなくなって、どぎまぎしてしまった。
「わからないですけど、そう思ったほうが気が楽でしょうね」
僕はいささか咳きこみながら返事した。たぶん、顔が赫くなっていたと思う。酔いの紅と区別がつかないかもしれないけど。
「そうよね。一回こっきりの人生だと思ったら、取り返しのつかないことばかりしてきたみたいで、気が重くなっちゃうもの。生まれ変わってやり直せばいいんだって思ったら、いろんなことが許せちゃうわよね。でも、わたしは人間なんてもうこりごり」
「それじゃ、なにに生まれ変わりたいんですか」
「スノークのお嬢さん」
「ムーミン谷の?」
「そうよ。毎日ムーミンといっしょに遊んで、ライラックとジャスミンのお花を摘んで、洞穴へ探検に出かけて、スナフキンが帰ってきたら、知らない遠いとおい国の話を聞かせてもらうの。それから、なにをしようかしら――なんでもいいわ、とにかく穏やかに暮せたらそれでいいもの」
「ムーミン谷はのんびりしてますよね。お互いに苦しめあったりしないし」
「ハプニングはあっても、人をひどく傷つけたりしないわよね。誰かを奴隷みたいに扱って自分の思いのままにしようとしたりしないもの。ねえ、天災と人間だったら、どっちが怖いかしら?」
「どちらかといえば、人間のほうでしょうね。自然は悪意があって騒ぐわけじゃないですから。困らせてやろうと思ったり、意地悪をしようとして地震や台風を起こすわけじゃなくて、ただありのままに振る舞っているだけで――人間は違いますよね」
「そうよね。人間はずる賢いもの。ほんとに、どうやったらそんなことを考えつくのかなって思うくらいひどいわよ。人を追い込んだり、追いつめたり、平気でするものね。ムーミン谷へ行って暮らしたいな。白い雲の浮かんだ晴れた日はお出かけして、大きな木の下でムーミンに膝枕してもらうの。ふかふかしてて気持ちよさそうだわね。そよ風が吹いていて、わたしは気持ちよくうとうとするの。なにがあっても、大きな木とムーミンがわたしを守ってくれるんだって安心して……あら、こっちじゃないわ」
弓岡さんはあたりをきょろきょろ見回す。
「だから、どこに住んでいるんですか」
「地蔵南町よ」
「なんだ、僕と同じ方向ですね」
僕は弓岡さんの腕を取ったまま国道沿いを引き返した。
人は、どうして生まれ変わるなんていう考えを持つようになったのだろう? 自然の姿を見て、同じ命なのだから自分たちも春に若葉が芽生えるように生まれ変わると思ったのだろうか。それとも、もし生まれ変わることができたら、次こそはこんなつらいを思いをしなくてすむと、自分をなぐさめるために考えたのだろうか。
喫茶店『すずらん』のある駅前北口商店街のアーケードへ入ると、天井の時計の針は午前一時すぎをさしていた。人影は見当たらない。どこかの店で壊れかけたシャッターがばたばた鳴る。風にまかれたチラシがマーブル模様の石畳を転げていった。弓岡さんは少女時代の思い出をとりとめもなく楽しげにしゃべり、僕はただ相槌を打った。
「あれはなんでしょうね?」
僕は、シャッターを下ろした薬局の前に置いてあるダンボール箱を指差した。
「ゴミにしてはおかしいわね。捨て猫じゃない」
「どうもそうみたいですね」
僕はうなずいた。蓋を開けっ放しにした箱の上からバスタオルの端が外へはみだしている。
「飼ってみようかな」僕が言った。
「わたしも同じことを考えていたの」
「それじゃ、弓岡さんが飼ってくださいよ。猫がいたらさみしさもまぎれるかなって、ふっと思っただけです。小さい頃に犬を飼っていたけど、猫は飼ったことがないからどう世話をすればいいのかわからないし、どうせ僕じゃ面倒を見切れないから」
「いいのよ。見つけたのは瀬戸君なんだから、あなたが飼ったらいいじゃない」
「とりあえず、どんな仔猫なのか見てみましょうか」
そう言いながらダンボールの中を覗いた僕と弓岡さんは、きょとんとして目を合わせた。
「赤ちゃん――」
「あら、ほんとうに――」
小さな赤子が毛布にくるまってすやすや眠っている。ダンボールの隅には使い捨てカイロが二つ置いてあった。この子を捨てた母親のせめてもの心遣いなのだろうか。僕たちはしゃがみこんだ。
「かわいいわね」
弓岡さんは、赤ん坊の頰を人差し指で軽く押し、
「やわらかいわ。子育てって、どうすればいいのかしら」
と、赤子を抱き取ろうとする。
「交番へ届けましょうよ」
「それもそうね。子育てするなら、哺乳瓶を買わなくちゃいけないし。生後三か月まで用とか、三か月から六か月まで用とかいろいろ種類があって、吸い口の大きさが違っていたりするの。おまけに哺乳瓶専用のブラシだとかいろいろ買い揃えなきゃいけないから、哺乳瓶だけでも結構な出費よ。わたしじゃ養えないもの」
「そういう問題じゃなくって」
僕はダンボールを抱えあげた。弓岡さんは、愛しそうに、悲しそうにじっと赤子を見つめる。彼女の瞳がきらきら輝く。
「また人間をすることになっちゃったのね。ここがムーミン谷じゃなくて残念だわね。ねえ瀬戸君、交番へ届けたらきっと孤児院へ送られちゃうわよ。ここに置いておけば、大金持ちに拾ってもらえるかも」
「そうなれば不自由なく暮せるかもしれませんけど、ここにいたら大金持ちがやってくる前に凍え死んでしまいますよ」
「やっぱり交番なのかな」
「暖かいところへ早く連れて行ってあげましょう」
僕は箱を抱えて歩き出した。
赤子はやはり眠ったままだ。
天使に見守られているみたいに気持ちよさそうにしている。もしかしたら、天使か神さまかは知らないけど、ほんとうにそういったものに守られているのかもしれない。この子は親に捨てられたことに気づいていない。そう思うとなんだかしんみりしてしまった。人は誰でも、小さな掌に夢のかけらを握りしめてこの世へ生れ落ちるはずなのに。とはいえ、僕にしても、赤ちゃんを引き取って育てることなんてできない。こんな時、遥ならなんて言うのだろう。
さいわい、駅前の交番には巡査がいた。やつれた横顔をした女の人が机の前のパイプ椅子に坐っていて、疲れ果てた指先でのろのろとボールペンを動かしながら書類になにやら書きこんでいる。初老の警官は入ってきた僕たちに一瞥をくれただけで、険しい表情を崩さず女の筆先を睨む。巡査の顔は冬だというのにまるで幾重にも色を塗り重ねたように陽焼けしていた。岩でも割ってしまいそうな硬い額をしている。
「あの、すみません。赤ちゃんが捨てられていたんです」
僕がそう言ったとたん、赤子はけたたましく泣き始めた。巡査は黙って立ち上がり、僕が抱えた段ボール箱のなかを覗く。彼はふっと頰を緩め、
「よしよし」
と、慣れた手つきであやしながら赤ん坊を抱き上げた。
「生後二三か月といったところだな。いい子だ」
「五か月です」
女の人がぽつりと言った。
「あんたの子供か」
巡査は赤子に顔を向けたまま鋭く問いかけ、
「栄養状態が悪いな。ろくにお乳もあげていないのか」
とため息をつく。
「すみません」
「私に謝ってもしょうがないよ」
「仕事を首になって、探しても見つからなくって、お金がなくなってしまって――。母乳はとっくに出なくなってしまいました」
「役所へ行って生活保護を申請すればよかったのに」
「役所で相談しましたけど、あたしは仕事を探して働くことができるから受け取ることができないんだそうです。それで――」
母親はうなだれた。ほつれた髪が顔を覆う。
「それで子供を捨てて、自分は無銭飲食しに行ったのか」
「粉ミルクの缶が空になったのを見て、膝から力が抜けてへたりこんでしまいました。お腹が空いて泣いているのに、なんにも食べさせてあげられないんです。あたしもふらふらでした。このままじゃ、共倒れになってしまう、もうだめだって。どうしていいのかわからなくなって、この子がぐっすり眠っている間に置いてきました。飢え死させてしまうよりは、きちんと育ててくれる方に拾っていただけたほうがいいですから。悪いのはあたしです。あたしは母親失格――」
「――抱いてあげなさい」
巡査は泣きやまない赤子を母親に手渡した。彼女は我が子を胸に抱き取り、鼻を真っ赤にはらしてむせび泣く。赤子は嬉しそうに目を開け、すぐに泣きやんだ。小さな手を母親に差し伸べ、彼女の体を摑もうとしてやわらかな掌を握ったり開いたりする。彼女は嗚咽をこらえながら赤子にやさしく頬ずりをした。
「やっぱりお母さんがいちばんいいんだな」
巡査は顔をほころばせた。
さっき赤子を拾った時、なんてひどいことをする母親なんだろうと思ってしまった。だけど、捨てられた悲しみと捨てる悲しみのいったいどちらが重いのだろう。
「ごめんなさい。もう二度としません」
母親は赤子の頭をかき抱く。
「あんたばかりが悪いわけじゃないよ。この頃、捨て子が多いんだ。世の中がおかしくなってしまったんだよ。あんたと赤子が困っていても誰も助けないだろう。極端に言えば、この子を捨てたのはあんたじゃない。世間があんたにこの子を捨てさせたんだ。――相談センターへ電話するから、あんたが自分で担当の人と話しなさい。生活保護だってきっともらえるように取り計らってくれるよ」
「ありがとうございます」
「礼なら、彼らに行ったほうがいいと思うがね。生き別れになるところを再会させてくれたんだから」
巡査の言葉にはっとした母親は僕たちに向き直り、深々とお辞儀した。
「あの、これでよかったら食べてください」
僕はケーキの箱を机の上に置いた。弓岡さんは「これも」といって自分のケーキの箱を僕のそれに並べた。母親は黙ったまままた頭を下げた。
交番から出ると、外は冷えこみが一層厳しくなっていた。酔いがすっかり醒めた僕は、
「よかったですねえ。お母さんに会えて」
と交番を振り返った。ガラス窓越しに見える巡査は立ったまま電話の受話器を取って話している。きっと相談センターへ電話しているのだろう。
「ほんとうにそうね。やっぱりお母さんがいちばんなのね。だって、赤ちゃんの表情が輝いていたもの」
弓岡さんは寒さに震えながら僕の腕を取った。南口へ通じる鉄道高架の下を潜り抜ける。彼女のハイヒールの音がこつこつ響く。やけに飛ばしたパジェロがテールライトの尾を引きながら走り去った。
「さっきのって、ほんとうに僕たちが再会させてあげたんですかね」
僕はなんとなく言った。
「どうして?」
「なんだかあの赤ちゃんに呼び寄せられたような気がしないでもないんです。だって、偶然といえば、あまりにも偶然すぎますよね。赤ん坊を拾って交番へ届けたら、そこにお母さんがいただなんて。あのお母さんにしたって、無銭飲食で捕まらなかったら、あそこにはいなかったわけですし。神さまが僕と弓岡さんを使って、あの親子が再会できるように取り計らったような気もするんですよ」
「そういうのってあるかもしれないわね。ぎりぎりまで追いつめられてもう死んじゃうっていうときは、どういうわけだかしらないけど、神さまが助っ人を呼んでくれたみたいな感じで誰かが助けにきてくれたりするものなのよ」
「そんなことがあったんですか」
「あったわ。さっきのお母さんみたいに、食べるものがまったくなくなってしまったのよ。高校生の時、お父さんが破産しちゃったの。小さな貿易会社をやっていたんだけど、会社が潰れて大変だったわ。お金がまったくなくなって、いろんなものが差し押さえられちゃって、最後にはとうとう米櫃のなかが空っぽになっちゃったの。あせったわ。冷蔵庫のなかは、さしみしょうゆとかねりわさびとかそうめんつゆなんかのほかはなんにもないし、そんなものがあっても、お魚もそうめんもないんだもの。わたしは本気でねりわさびをそのまま食べようかなって思ったくらいよ」
「大変だったんですね」
「毎日借金取りが家へきて大騒ぎだったわ。借金を返せない人間って、人間扱いなんかしてもらえないの。虫けらのふんみたいなものよ。虫けらですらないの。そのふん扱いなの。あの時は一生分土下座したわね。土下座したって借金が減るわけでも、利子を返せるわけでもないから、そんなことやってもしょうがないんだけど。借金取りは借金を取り返すのが仕事だから、土下座されてもなんとも思わないのよ。土下座する暇があるんだったら、どこかからお金を引っ張ってこいって、そんな感じよ。お金ってね、ほんとうに人間を狂わせちゃうものなのよ。お父さんはほとんど気が触れたようになっちゃって一家心中しようとするし、たまらなくなったお母さんは家出して北海道の実家へ帰っちゃうし。しょうがないから、わたしは札幌のおじいちゃん家へ行ってお母さんを連れ戻したりしたのよ」
「それで食べ物はどうしたんですか」
「たまたま、ほんとにたまたまなんだけど、お父さんの友だちが防波堤で釣ったさばだとかあじだとかをお裾分けしにきてくれたの。あの時はクーラーボックスのなかの魚を食い入るように見つめちゃったわ。だって、丸一日なにも食べていなかったんだもの。そのままお魚を鷲摑みにしてむしゃむしゃ食べたくなっちゃったのよ。事情を聞いたお父さんの友だちが急いでお米を十キロ買ってきてくれて、釣ってきた魚も全部くれて、それでようやく食事できるようになったの。炊き立てのご飯って甘い香りがするのよね。焼き魚を食べてたら、なんだか涙がぽろぽろこぼれちゃった。おいしいのか、うれしいのか、かなしいのか、自分でもよくわからないけど、とにかく泣けてきちゃうのよ。お米だって文字通り一粒残さず食べたわよ。子供の頃にご飯粒を残してよく叱られたけど、あれでお父さんがどうして怒ったのかようやくわかったわ」
「助けてもらえてよかったですね」
「ほんとよ。あの人がきてくれなかったら、飢え死にするところだったんだもの」
弓岡さんはそう言って体を震わせた。顔が蒼ざめている。
「大丈夫ですか」
「なんだか眠いの」
弓岡さんの体が崩れ落ちる。僕は慌てて彼女の体を支えた。
「ここで寝たら風邪を引きますよ」
体を揺さぶってみても、目を閉じたまま明けようとしない。
木枯らしは吹き続けていた。並木道のぼんやりとした街灯が続いている。手がかじかむ。僕は彼女を負ぶった。