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桜の川

「鯉がいるのね」

 京香は声を弾ませた。

 僕たちは神田川に架かった橋の上に立っていた。

 両岸も川底もすべてコンクリートで固めたなんの変哲もない都会の川だ。川と呼ぶよりもむしろ、大きな側溝といったほうがいいかもしれない。春のうららかな陽射しが川面に照り映え、濁った川底には濃い緑色した水草が茂り、ゆっくりとした流れに揺れている。赤い魚が横一列に並び、川上に頭を向け、軒先で夕涼みでもするように、先へ進むわけでもなく後ずさりするわけでもなく、静かに佇んでいた。

 川の両端には小さなマンションやビルが連なっている。どこかでビルの工事でもしているのだろう。遠くから槌を打つ音が甲高く響いてくる。

「きれいとはいえない川なのにね」

 僕は相槌を打った。

「わたしはてっきり、この川は魚なんてなんにもいない大きなどぶ川だとばかり思っていたわ」

「たくましいね」

「生き物は、どんな現実にもどんな環境にも慣れてしまうのよ」

「そうじゃないとサバイバルできないものね」

「鯉も人間も同じかも。さあ行きましょ」

 京香は僕の腕を取る。京香は白いブラウスに水色のカーデガンを羽織り、カーデガンとお揃いの色したミニスカートを履いていた。

 レンガを敷き詰めた川べりの遊歩道へ入り、たわいもないおしゃべりをしながら下流の方向へ歩いた。

 新目白通りと明治通りの交差点を渡る。ボディに緑の帯を巻いた都電がことこと走る。僕たちはまた神田川沿いを歩く。川越しに面影橋の停留所を眺め、しばらくすると川べりに満開の桜が咲いていた。

「きれいね」

 京香は歓声をあげた。

「ほんとだね」

 僕はほっと息をついた。神田川沿いの桜を眺めるのは今年で三回目だけれど、何度見てもいい。

 薄桃色の花びらがはらはらと舞う。無数の桜の花びらが川面にはりつき、さらさらと流れていく。桜が川を飾ってあげているようだった。

 見物客が散策する川沿いの小道を歩いた後、僕たちは公園へ入った。公園のなかも桜がたくさん咲いていた。空いているベンチを見つけて腰かけた。

 桜の花越しに青空が見える。僕たちは肩を寄せ合ってしばらくぼんやりと眺めた。東京の色褪せた青空に白い雲が流れていく。

「それにしても不思議だよね」

 僕は京香に言った。

「なにが?」

「桜が咲くのなんて、せいぜい一週間くらいだろ。その一週間のために、人は桜を植えて育てるんだもの」

「いわれてみればそうね」

「その一週間がとても大切なんだね」

「神様がこの世をきれいに飾る一週間なのよ」

「人は神様にこの世を飾ってもらうために桜を育てるのかもしれないね」

「きっとそうなのよ」

 それから僕たちはベンチのうえで弁当箱を開けた。京香がおにぎりを握って、卵焼きとウインナーを入れてくれた。おにぎり頬張る京香はやさしい顔をしている。満ち足りた倖せそうな表情だ。京香がもし新婚の奥さんになったらこんな顔をするのかなと、ふと思った。

「ねえ、いっしょに暮らせたらいいな」

 僕は魔法瓶につめてきたほうじ茶を飲んだ。

「わたしもそう思っていたの。瀬戸君の部屋へ引っ越そうかな」

「僕の部屋は狭いから京香の荷物が入りきらないよ。僕が京香の部屋へ行くよ」

「わたしはあの部屋にあんまり住みたくないんだ」

「いろんな人がくるから?」

「それもあるけど」

「それじゃ、ふたりで部屋を探してみようよ」

「そうね。今すぐにっていうわけにはいかないけど。いろんなことが片付いたら、ふたりで部屋を見て回りましょうか」

「いろんなことって――」

「瀬戸君といっしょにいたくないっていうわけじゃないのよ。ほんとに、ややこしいことがいろいろあるの。それが終わるまで、もうすこしあの部屋にいなくちゃいけないのよ」

「僕は待ってるよ。うまく片付くといいね」

「ごめんね」

「あやまることなんてないよ」

「ありがとう」

 京香は僕の腕を握りしめ、頭をもたせかけた。

 それから僕たちは花びらをおたがいの顔にぺたぺたはりつけて、スマホで写真を撮った。京香はさっそくふたりで撮った写真に美白の修正を施した。

「なんだか高校生みたいだね」

 僕は言った。

「若く見えていいじゃない。わたしも二十歳前くらいな感じに見えるわ」

 京香はくすくす笑い、その写真を待ち受け画面に設定した。

「高校生のバカップルって感じね」

「え? 」

「冗談よ。瀬戸君はなかなかハンサムだわ」

 京香はスマホを持ち上げて、まんざらでもなさそうに画面を見つめた。

 二年前は東京へきたばかりで、ひとりぼっちで桜を眺めた。とうとう都へやってきたんだなという期待とこれからどうなるんだろうという不安が桜の花びらと春の夜の冷たい雨に混じっていた。傘を差してあてもなく街を歩きながら、遥にどうやって連絡を取ろうかと、もう僕のことなんて忘れてしまったのではないかと、そんなことをつらつら想っていた。去年の桜は遥と一緒に観た。遥とは高校生の頃にも一緒に桜を観たことがあるけど手を繋ぎながら観るのは初めてだった。あこがれの遥とようやく恋人になることができて、僕はとても倖せだった。今年は京香と桜を観ている。桜は変わらない。でも、僕の気持ちは毎年変わる。僕を取り巻く状況も変われば、僕自身の考えも変わる。来年はまた今とは違う気持ちで桜を眺めることになるのだろう。ほんとうの僕がどれなのかはわからない。

「ほんとうの倖せってなんだろうね」

 僕はぽつりと言った。

「そうね」

 京香はぼんやり空を見上げる。

「京香はなにがほんとうの倖せだと思うの」

「自分の意思と責任で自分らしくきちんと生きることかな」

「京香は大人だね」

「ほんとうにそれができればね。わたしの理想よ。理想だからこれからそれが実現するかどうかなんてぜんぜんわからないわ」

「きっと実現できるよ」

「でもこれだけは思うの。

「瀬戸君はどうなのよ」

「ほんとうの倖せは大切な人と一緒にいることかな」

「それってわたしのことよね」

「もちろんだよ。大切な人と一緒にいるから、あたたかい気持ちになれるし、毎日の暮らしも張り合いのあるもになるんだよ。一緒にいるから愛が生まれる。その愛から生まれたものがほんとうの倖せなんだと思う」

「わたしを大切にしてね」

 京香は僕に肩にもたれかかる。花びらがはらはらとふりかかる。僕は京香の肩を抱き、なにも言わないままお互いのぬくもりを確かめ合った。


 空が暮れなずむ。ぼんやりとしたあたたかい夕暮れだった。僕たちは電車に乗って高円寺へ行き、小さなライブハウスへ入った。入口の脇には落ち着いた木目調のバーカウンターがあり、老人とおじさんのグループが賑やかに酒を飲んでいる。店のなかはやはり木目調のテーブルが六つほど並んでいて、それぞれのテーブルに椅子が四つ置いてある。歌声や楽器の音色が染みこんだようなつややかな木版の壁が全体の雰囲気にやわらかさを与えている。いちばん奥にスポットライトに照らされたステージがあった。

 席に坐ると店員がやってきてチケットの半券をもぎる。ドリンク付きだったので、僕はソルティードッグを頼み、京香はスクリュードライバーを頼んだ。三々五々と客が集まる。僕たちと同い年くらいの若者もいれば、中年の夫婦連れもいた。僕たちのテーブルには三つ揃えのグレーの背広を着た白髪の痩せた老人と髪を三つ編みにしたぽっちゃりとした可愛げな女の子が坐った。老人は焼酎のロックを一気に呷り、すぐにおかわりを注文する。

「お兄さんは学生さんかな」

 白髪の老人が僕に話しかける。

「はい」

「そうですか。私はある大学で詩の講座の講師をしているのです。私は学生にいつも彼の歌を聴いてごらんなさいと勧めているのですよ。彼女は私の学生でしてね、今日は一緒に聴きにきてくれたのですよ。あなたも彼のファンですか? 」

「ファンというより初心者です。この間、たまたまテレビで歌っているのを見て面白い歌を唄う人だなって思って、それで聴きに来たんです」

 僕がそう話すと、老人はうんうんと頷く。

「テレビもいいけど、彼の歌は生で聴くのがいちばんです。私はかれこれ四十年以上彼の歌を聴き続けています。初めに聴いたのは高校生の時でした。衝撃を受けました。彼は自分でも歌詞を書きますし、日本のさまざまな詩人の詩にメロディーをつけて唄います。こんなふうに詩を自由にメロディーをつけて歌っていいんだと、そして、それはとても素敵なことなのだと、そう教えられました。詩を歌いあげることで詩の世界がさらに広がり、さらに深まります。私は彼の歌を聴いて詩の道を志すことにしたのですよ」

「人生の師匠なんですね」

「その通りです。私は彼の歌に導かれてこの歳まで歩んできました。彼の歌によって私は詩の世界を自由に泳ぐことができるようになりました。彼の歌は私の人生そのものなのです」

 老人はゆっくりとかみしめるように話す。僕はこれこそはと思うものに出会ったことがない。好きなことはいろいろあるけど、これに人生を賭けてみようと思ったものはない。なにかに夢中になれるのは素敵なことなのだなと、きらきらと少年のように目を光らせる老人を見て羨ましく思った。

 カウンターバーに坐っていた小柄な老人が立ち上がり、

「さあ、そろそろ始めるか」

 といってふらふらとステージへ歩く。彼を囲んで飲んでいた人たちもぞろぞろとステージへ向かい、それぞれの持ち場についた。ギターのチューニングする音がひとしきり鳴った後、ドラムがリズムを叩き、エレキギターのソロとアコーデオンが重なったかろやかなイントロが流れる。彼はアコースティックギターを爪弾きながらのびやかな声で歌い始めた。



 おから運びブルース



 運ぶんだよ

 おからをよ

 運ぶんだよ

 おからをね

 俺らは軽トラ運転手

 夜の商店街を走る


 おからは

 体にいいんだよ

 おからは

 栄養満点なんだよ

 お腹が空いたら

 つまみ食い

 だから

 俺らは風邪知らず


 商店街から商店街へ

 豆腐屋からお豆腐屋へ

 おからを集めて

 回るんだよ

 寝静まった

 街を走りぬけて



 今日はちょっぴり

 悲しいんだ

 あの

 ふられてしまったよ

 好きな人が

 いるんだってさ

 俺らの

 ハートは破けたよ


 荷台には

 おからがいっぱい

 ごとごとごと

 揺れて走るよ

 総菜工場へ行くんだよ

 みんなの

 おかずになるんだよ


 おからは歌うよ

 ほがらかに歌うよ

 ときどき

 荷台からこぼれる

 明日の朝

 雀のえさに

 なるんだよ



 運ぶんだよ

 おからをよ

 運ぶんだよ

 おからをね

 俺らは軽トラ運転手

 夜の商店街を走る



 歌が終わった後、ひとしきり拍手がわいた。向かいの老詩人は掌を真っ赤にしてひときわ大きな拍手を鳴らしていた。

「どうもこんばんは。ワカタミノルです」

 老シンガーはぺこりを頭を下げる。

「ミノルちゃん!」

 観衆の誰かが声援を叫ぶ。

「まあまあ、始まったばかりですし、どうか落ち着いてください。わたしは夕方からそこで飲んでいて、いささかできあがっていますので、失礼して坐らせてもらいます」

 観客はどっと笑った。老シンガーは椅子に腰かける。彼は小柄な老人だった。痩せた頰に真っ白な髭を生やし、白い口髭を蓄えていた。黒縁の大きな眼鏡をかけ、チェックのブラウスにジーンズのベストを着ている。目はおだやかな光をたたえていた。このままサンタクロースの衣裳を着たらとてもよく似合いそうだ。

「今日はどれくらい飲んだかというと、ウイスキーの水割りを五、六杯ほどでして――うーん、もうちょっと飲んだかな、七、八杯というところでして、ともあれ、とても気持ちがいいのです。しばらくのあいだですが、みなさんといっしょに気持ちよく過ごせたらいいなと思います」

 老シンガーは飄々と語り、次の歌を始めた。彼は、自作の作詞作曲の歌や、吉野弘、山之口獏といった詩人の詩に曲をつけた歌を次から次へとのびやかに歌う。ユーモアとペーソスと生きるしたたかさがほどよく折り合い、ちょっぴりせつない気持ちをやさしく歌い上げていた。京香は楽しそうに聴いている。



 お地蔵さん



 賽銭箱から小銭を盗んだ

 夜のお地蔵さん

 泣いているような

 笑っているような

 どこへ行っても

 うまく生きられない

 ごめんなさいと謝った


 そのうち稼いで返します

 夜のお地蔵さん

 仕事がありません

 失業保険も切れました

 しばらくのあいだ

 すこし助けてください

 ごめんなさいと謝った


 さびしい気持ちでいっぱいです

 夜のお地蔵さん

 大人になったら

 ひとりぼっち

 どこの誰と会っても

 うまく話せない

 ごめんなさいと謝った


 落ちぶれた私を笑ってください

 夜のお地蔵さん

 欠けた月はいつか

 満ちるというから

 そのうちなんとかなると

 思いたいのですが

 ごめんなさいと謝った


 賽銭箱から小銭を盗んだ

 夜のお地蔵さん

 泣いているような

 笑っているような

 どこへ行っても

 うまく生きられない

 ごめんなさいと謝った



 この歌を唄い終わった後、老シンガーはふうと息をついた。

「賽銭泥棒! くれてやる」

 突然、観衆の男が立ち上がり、五百円玉を老シンガーへ投げつける。その男もしたたか酔っているようだった。五百円玉は老シンガーの手元に置いてあったグラスに当たり、グラスが砕けた。

「なんてことをするんだ」

 憤った老シンガーは立ち上がり、コインを投げつけた男を睨む。老シンガーは怒りのあまり息があがり、それ以上言葉が出てこないようだった。

「誰か俺をとめてくれ」

 彼は涙声でつぶやく。向かいに坐っていた老詩人がすくりと立ち上がり、ステージまで小走りして老シンガーソングライターを抱きしめた。彼は子供のように頭を振る。五百円玉を投げつけた男は気まずそうに席に坐り込む。やがて、気を取り直した老シンガーは歌を続けた。

 それから何曲かを歌った後、彼は坐ったままなにも言わなくなった。歌い疲れたのか、酔い疲れたのか、老シンガーはこくりこくりと舟を漕いで眠っている。バンドマンもライブスタッフも誰も彼を起こそうとはしない。観客もただ老シンガーを見守っている。不思議な静けさがライブハウスをつつんだ。

「ステージで寝てしまうだなんてびっくりしてしまったでしょう」

 老詩人は僕にささやいた。

「ええ。こんなのは初めてです」

「彼はときどき歌いながら寝ちゃうのですよ」

「それでみなさんは慣れているんですね」

 僕はあたりを見回した。誰も不満そうな顔などしていない。

「自然体なのが彼の魅力でもあるのです。今日はいい日に当たりましたね」

 向かいの老詩人はほほえましそうに老シンガーを見つめる。

「仙人みたいね」

 京香は右にえくぼを作ってくすりと笑った。

 老シンガーはやおら頭をもたげる。

「本日はみなさんお集りいただいて、まことにありがとうございました。みなさんに歌を聴いていただいて、なんだか夢のなかにいるような時間でした。中学生の時に初めてギターを手に取り、かれこれ五十年ほど歌っております。若い頃はいきがっていわゆる反戦歌をよく歌っておりました。そんな時代でもありました。この歳なのでもうあと何年歌えるのかわかりませんが、この頃しみじみと思うのは、日常をきちんと歌うことが肝心なことだということです。平和だからこそ日常があります。その日常をかみしめることが、平和を守りたいという気持ちにつながるのだと思います。平和だから、僕もこうして歌を唄うことができます。そのうち、またライブを開きますので、その時はお集りいただければと思います。それでは、本日の最後の歌です」

 老シンガーはのんびりとした口調で、しかし、言いたいことははっきりと言ってライブの締めくくりの歌を始めた。



 かくれんぼ



 あたしゃこの世で

 かくれんぼ

 探してくれる人を

 待っている

 もういいかいって

 やさしい言葉を

 待っている


 さびしいとつぶやき

 かくれんぼ

 悲しみはだれにも

 話せない

 わかってもらえない

 心の痛みに

 黙りこむ


 愛にあこがれ

 かくれんぼ

 いとしいその人を

 待っている

 もういいよって

 お空を見上げて

 待っている


 夢を見るのよ

 かくれんぼ

 あたしゃここで

 生きている

 ちっぽけな花を

 胸に咲かせて

 生きている


 今日もひとりで

 かくれんぼ

 見つけてくれる人を

 待っている

 みぃつけたって

 やさしい言葉を

 待っている



 拍手が湧き、観客はアンコールをもとめて手拍子を揃える。老シンガーははにかみながら笑い、

「仕事が終わらなきゃ、飲めないじゃない」

 と冗談を言って、アンコールの歌を唄った。アンコールを歌い終えた後、長い拍手が続いた。老シンガーはステージから客席へ行き、人懐っこい笑顔を浮かべながら一人ひとりに握手をした。

 観客は立ち上がり、ライブハウスを出る。老詩人が一緒に飲まなかと誘ってくれたので、僕たちは、老シンガー、老詩人、バンドマンたちとテーブルを囲んでお酒を飲んだ。お下げ髪の女学生や五百円玉を投げつけた男も一緒だった。

「歌い終わった後のお酒は最高だね」

 と老シンガーははしゃぐ。盛り上がってはギターやアコーディオンで歌を唄い、またみんなでおしゃべりの花を咲かせてと賑やかなお酒だった。

「若い君、人類に希望があると思いますか? 」

 かなり酔っ払った老シンガーが急に真面目になって僕に問いかけた。顔は酔いにあかく火照っていたが、目つきは真剣そのものだった。老シンガーの白髪混じりの髭にバーボンが滴になってついていた。

「ええ、あると思いますけど」

 僕はいきなりの問いかけに途惑いながら答えた。

「未来は希望に満ちたものです。人間にはね、理想っていうものが必要なんですよ。理想が人間をよい方向へ導いてくれるのです。世の中はいろいろあるけど、理想があるから平和が守られ、穏やかな日常が生まれ、暮らしを立てることができるのです」

 かなり酔っぱらった老シンガーは熱く語る。

「その通り」

 やはりしたたかに酔っ払った老詩人は相槌を打ち、

「理想はしなやかにつよいものです。理想はいくら叩き潰されても消えることはありません。理想は人々の心に根強く残り、闘い続けます。そしていつの日か必ず、人間はいつか曇りのない理想を我がものとすることができるようになるのですよ。生産力が爆発的に増えれば、世の中ががらりと変わります。今のようにお金に振り回されて、お金に縛られることもなくなる。労働はお金を稼ぐためのものではなくなり、労働は人間性を高めるためだけのものになる。人々は人間を人間たらしめるものを磨くための労働を行うようになって、この世は愛と平和で満たされるのです」

 と大袈裟な身振りで手を振り回しながら言った。

「わたしが生きている間のことかどうかはわからないけど、いつの日か人間は解放されます。この世はユートピアになるのです」

 老シンガーはヒクッとしゃっくりをする。このまま語り続けるのかと思いきやあたりを見回して、

「おいっ!」

 と五百円玉を投げつけた男を呼びつけ、なんであんなことをやったんだよとこんこんと説教を始めた。やはりかなり酔っ払った五百円玉男はあなたに当てるつもりはなかったのだと平身低頭に謝る。

「まあいいや。許してやるから、飲め」

 老シンガーは五百円玉男のグラスになみなみとバーボンを注ぎ、

「私も飲み干すから、お前さんも飲み干すんだぞ」

 と言って、ぐびぐびぐびとストレートのバーボンをあおった。五百円玉男は酔っ払ったとろんとした目で老シンガーの飲みっぷりを見つめていたが、やおら自分もグラス一杯に満たされたバーボンを一気に飲み干した。五百円玉男はそのまま仰向けに倒れる。お下げ髪の女学生が駆け寄って男を介抱した。それからも飲めや歌えやの騒ぎが続いた。

 十一時過ぎ、僕らは老シンガーや老詩人にお礼を言って先にライブハウスを出た。

「歌を作る人や詩を書く人って発想が違うわよね」

 京香は星の見えない夜空を仰いでつぶやきく。京香の足取りはふらふらとしていた。僕も酔ったせいで足がだるくて仕方ない。

「シンガーソングライターのおじいさんは、いずれこの世がユートピアになるんだって言っていたけど、わたしにはとても信じられないわ」

「いつかそうなるんだと僕も思うよ。ものすごく時間がかかるかもしれないけどね」

「そうなのかなあ」

 京香は首を傾げる。

「わたしには信じられないわ」

「いつか京香もそう思うようになるよ。そんな日が来る時のために、あのおじいさんは歌っているんだよ」

「瀬戸君はずいぶんロマンチックなのね」

「ロマンチックなんかじゃなくて、しごく現実的な話だよ。僕はそう思うな」

 僕たちは手を繋いで駅の階段を上った。


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