癒えない爪痕
しばらく須藤さんは暗い眼をしたままなにも話さなかった。僕は黒霧島の水割りを作って須藤さんへ渡した。
「むごいですね」
僕はぽつりと言った。
「残念なことに彼を外へ連れ出してあげることができなかった。もっとも彼らの魂は深く混乱して、傷つきすぎている。修練を積んだ修験者や僧侶でも彼を成仏させるのは至難の業だろう。私はすこしばかり霊感が強いというだけだからなにもしてあげられない」
「怖くなかったのですか?」
「慣れているからね。あれほど多くのさまよえる魂を眼にしたのは初めてだが。私の実家は寺だからいろんな魂がやってくる。途方にくれた魂、泣き叫ぶ魂、憤怒の塊になった魂、さびしくて震えてる魂……子供の頃からいろんな霊魂に出会った」
「それでその後はどうしたんですか?」
「たまたま通りかかった博物館の職員が助け起こしてくれたんだ。ソリヤという名のまだ二十歳前の若い男だった。小柄な彼が大柄な私をひとりで背負って庭まで下ろしてくれたから、私はコンクリートの叩き台の上にあぐらをかいて、荒い息を吐きながら体と心を整えようとした。だが参ったね。耳鳴りや頭痛はましになったのだが、グランドをうろうろ歩いたり、鉄棒で逆さ吊りにされて拷問されたりする魂たちの姿がまだ見える。ソリアははっと叫び声を上げ、私の背中を強く押した。眼の前に火花が飛び散った。
『Are you all right ? 』
ソリヤは訛った英語で私に訊く。
『ありがとう。助かったよ』
『亡霊はまだ見えるかい?』
私は明るい陽射しが降り注ぐ校庭を眺めた。ただのひなびた廃校だ。観光客の姿と撮影にきたらしい白人のテレビクルーの姿が見えるだけで、ほかのものはなにも見えなかった。襟付きの白い半袖シャツを着た白人の男が鉄棒にぶらさがって逆上がりをする。マイクを手にしたリポーターらしい女性とカメラを担いだ男があたりをきょろきょろと見回していた。
『消えた』
私はほっと胸をなでおろした。
『よかったね』
ソリアは白い歯を見せて笑う。ガンボジア人らしい丸い眼と丸い鼻と分厚い唇の顔立ちだった。肌が焼けているぶん、眼と歯の白さが目立つ。輝くような瞳の持ち主だ。その眩しい瞳の光がどこからくるものなのか、私は考えた。シンプルに心を清く保とうとしている人なのだろう。冒険小説の主人公のようだった。
『どうして私が亡霊を見ていたとわかったのだ?』
私は訊いた。
『そりゃ見ればわかるよ。みんなあんたを取り巻いていたし。――悪いことはしない。おびえてとまどっているだけなんだ』
『そんな感じだったな』
私はさっき独房で触れ合った囚われ人の話をした。ソリアはうなずきながら話を聞き、彼なら知っている、時々見かけると言った。
『君はいつも彼らの姿が見えているようだね』
『いつもではないけど。見ないようにすれば見えないし、見えるようにすれば見えるよ。すこしばかり修行したから』
『きつくないか?』
『初めはしんどかったけど、今はもうなんともないよ。ただ時々、わけもわかららずにぎゅっとしがみついてきて、俺らをあちら側へ引きずり込もうとする亡霊がいるから、そいつには気をつけないといけないけどさ。べつに悪気があってそんなことをするわけじゃないんだけどね』
『どうすれば彼らを外へ連れ出せるのだろう。私はあなたはもう自由だから外へ出ていいのだと言ってみたのだが、耳を貸してくれなかった』
『外へ連れ出すだって?』
ソリアは素っ頓狂な声を上げて首を振った。
『無理ってもんだよ』
『どうして?』
『ここが地獄なんだ。ちょっとやそこらで抜け出せるもんじゃない』
『地獄?』
『そうさ。地獄のようなところという喩えじゃなくって、正真正銘の地獄だよ。どうしてかはわからないけど、地獄を作ってしまったんだ』
『人間は生き地獄を作り出す恐ろしい生き物なのか』
ソリアの言うことはわかる気がした。なにか圧倒される想いになった。私はそれまで、地獄はどこか遠いところにあるものだとばかり思っていた。この世の向こう側のどこかにね。この地上に地獄があるとは思いもしなかったが、考えてみれば、アウシュヴィッツも、ヒロシマもナガサキも、それから歴史上に数多とあった虐殺も、みんな人間が作り出した地獄だ。地球上の生き物のなかで地獄を生み出せるのは人間だけだ。人類の歴史は地獄を作ってきた歴史といえるのかもしれない。
『囚われ人たちは生きながら地獄へ落ち、死んだ後もそこに留まったままでいるのか。彼らは無実の人がほとんどだろう。なぜ地獄へ入れられなければならなかったのだ?』
私は人間の抱えた理不尽さに茫然としながらつぶやいた。
『俺らもよくわからないよ。和尚さんは囚人たちは前世の因縁でトゥール・スレーン刑務所へ入れられることになったのかもしれないって言っていたけど』
『前世の因縁だけでは説明がつかないと思うが』
『たしかにそうだね。ひどすぎるもの。ポル・ポトが支配していた間、お釈迦様は眠っていたのかもね』
ソリアが私を送ってくれた道すがら、トゥール・スレーンについていろんな話を聞いた。昔、実際にこの刑務所のなかでどんなことが行なわれていたのだとかをね。私が見た亡霊の看守はみな年端も行かない少年や少女だったが、クメール・ルージュはわざとそんな少年たちを囚人たちの見張りにつけたそうだ。大人からすればむごたらしいことでも、まだ分別のつかない少年や少女たちは簡単にそれが革命の正義だと信じこんでしまう。クメール・ルージュは彼らを洗脳してしまったわけだ。
横断歩道を渡ると蓮の実売りの少女がまだそこにいた。ソリアが陽気な声で彼女に話しかける。少女の名はベアタといった。彼女はソリアの遠い親戚だそうだ。私がひどい顔をしているものだから、彼女を驚かせてしまったようだ。彼女は心配そうにちらりちらりと私の顔を見てひっそり微笑んでみせたかと思うと、そのそばからそっと微笑みを消してしまう。ソリアとベアタはなにごとかを話し合った。
『明日、ベアタとお寺へ行くんだけど、よかったらいっしょに行かない? お参りに行こうよ』
『喜んで』
私はありがたく申し出を受けることにした。
『決まりだね。明日の九時にホテルまで迎えに行くよ』
ソリアが愉しそうに笑い、ベアタになにやら耳打ちする。ベアタは目を丸くしてソリアを見つめたかと思うと耳の付け根まで真っ赤にして恥ずかしがった。私とソリアがベアタに手を振ると、ベアタは竹の菅笠の縁に手をかけて、はにかみながら手を振り返してくれた。可憐な姿だった。
それからソリアはベアタの話ばかりをする。どうやらソリアはベアタが好きなようだ。ベアタのほうもまんざらではないらしい。ただ、おたがいに恥ずかしくてなかなか言い出せないようだ。ソリアはベアタがどんなに素敵な女の子なのかを歌うように数え上げる。私は若い恋にエールを送っておいたよ。
安宿の入口へ入ろうとした時、客待ちのバイクタクシーの運転手が、
『女と遊びたくないか? いいところへ連れて行ってやる。なんだったら十二歳、十三歳の女だって紹介してやるぜ。四五歳の幼女だっているんだせ』
と大声で呼びかけてきた。彼は悪びれる様子もない。いつもそんなふうに客引きをしているようだ。怒った顔をしたソリアは私の腕を掴みながら『気にしないでくれ』と言い、押し込むようにして私を宿のなかへ入れた。きっとそんな客引きに腹を立て、屈辱に近い感情を抱いたのだと思う。私は礼を言ってソリアと別れた。
部屋へ戻った私はまず顔を洗った。鏡に映った私は案の定、力を消耗し切ったひどい顔をしている。まるで私のほうが幽鬼になってしまったようだ。水シャワーを浴びて汗を流し、板の上に竹のすだれを敷いただけの粗末なベッドへ倒れこんだ。竹で編んだ枕は使い古した布切れを巻きつけただけだった。小さなタンスのほかに調度らしいものはない。天井に据えつけた扇風機がペンキの剝がれかけた小さな部屋の空気を生温くかき回す。私は頼りなくくるくると回転する扇風機を眺めながら考えた。
トゥール・スレーン刑務所博物館は古代的恐怖と呼びたくなるようななにか本源的な恐ろしさに充ちていた。喰うか喰われるかの野蛮で獰猛な恐怖だ。光の届かない闇、あるいは、光が消えてしまう闇といえばいいのだろうか。そこでは光が一切無効になってしまうのだ。
ポル・ポトには原始共産制という理想があったのだろう。もしかしたら、ポル・ポトは本能的にマルクスの誤りを見抜いていたのかもしれない。マルクスは自分の思想を共産主義だと主張するが、実のところは国家資本主義にすぎない。資本主義を国家に統制させようとしたのがマルクス主義であり、マルクス主義は資本主義の変奏曲でしかないんだ。だから、ポル・ポトは貨幣といった資本主義的要素をすべて拒絶して農村共同体を作ろうとしたのだろう。だが、集団農場を国家の統制下に置くことには変わりない。しかも、暴力をむき出しにして人々を支配し、いわば全国民をクメール・ルージュの奴隷にした。ポル・ポトが作ったのは奴隷国家であり監獄国家だ。調和と友愛に満ちた社会を作るかわりに逆に全体主義の大圧制を行なってしまった。そのポル・ポトの闇を凝縮したのが、トゥール・スレーン刑務所だったのだろうね。そして凝縮された闇が地獄を出現させてしまった」
須藤さんはそこで言葉を置いて黒霧島のロックを呷った。頭のなかで考え事を続けているのだろう。須藤さんは居酒屋の奥を見るともなく見ていた。
「それにしても、そんな恐ろしいことを誰もとめなかったのですか?」
僕は訊いた。
「銃を持っている相手をとめようとしても、なかなかむずかしい。いったんむき出しの暴力の支配下に置かれてしまうと抵抗しようにもしにくいものだよ。戦前の日本もそうだった」
「カンボジア人にしても、ごく普通の人がほとんどなんでしょうね。それなのにどうして――」
「どうして普通の人々がそんな悪に加担したのかって訊きたいのだろう?」
「そうです。なぜそんなに残酷になれるのか不思議です」
「それはやはり、人間を人間たらしめるものはなにかということを考えなくては理解できないのだろうと思う。人間性の源泉はなにかということだ。ポル・ポトは資本主義から、つまりお金がすべてを支配する世の中から人々を解放しようとした。だが、それは生活の温もりをはぎとってしまうということでもあり、ひいては、良心や道徳といったものからも人々を解放してしまうということでもあったのだ。
ポル・ポトは、原始共産国家にそぐわないものや反対するものはみな敵であり、国家の理想を実現するためにならすべてをぶっ壊してもなにをしてもいいのだといって人々の日常生活やその基盤となる村落共同体や家庭を破壊してしまった。人間は生活の温もりに温められて良心や道徳をはぐくむ。それを壊されてしまったのでは、良心や道徳はどこかへ吹っ飛んでいってしまう。もちろん、生活の温もりがなくとも、己自身が慈悲や愛の塊となればいいわけだが、なかなかそうもいかない。人間は生活の温もりがなくとも良心や道徳や思いやりを保てるほど強くはない。良心や道徳がなければ、人はただの獣になる。あるのはむき出しの暴力だけだ。良心がなければ、罪もない人を告発したり虐待したり拷問にかけたりしてもなんとも思わずにすむだろう。そんなふうになってしまえば人間はお仕舞いだがね。人でなしになれば、悪霊になるしかない」
「ポル・ポトはほんとうに理想のために、そんなことをしたのですか?」
「おそらく初めはね。社会主義というものは世の中を改造することで地上に楽園を出現させようという思想だ。社会の矛盾や理不尽を敏感に感じ取る人間にとっては、当時は魅力的な考えだったのだよ。多くの人々がその思想に魅せられた。だから、ポル・ポトも真面目に世直しをしようと考えていたと思う。それが正義だと素朴に信じてね。
だが、革命戦争を戦い抜く間に彼は変わってしまった。権力を握れば人は誰でも変わってしまう。理想はどこかへ行き、権力のサバイバルが最重要課題になってしまう。権力は権力を勝ち取る過程において多くの人々を踏みつけにする。踏みにじられた者たちの哀歌はどこの国でも、どの民族でも、神話や物語のなかに語り継がれてきた。そうして神話や物語のテーマとして繰り返し語られてきたように、当然、やられた側は復讐を企む。誰が彼の命を狙っているのか知れたものではない。そのうち、ポル・ポトは周りの人すべてが敵だと思いこむようになった。独裁者はほんのちょっとした影にも怯えるものさ。復讐されないためには徹底的に相手を痛めつけて立ち上がれないようにするしかない。
権力者にとって恐ろしいのは下の人間が一致団結して反抗することだ。そうさせないためには、下の者たちがいがみ合うように仕向ければいい。ポル・ポトは、国のなかにスパイがいる、破壊工作を行なう者がいると言い立て、国民がお互いを猜疑心に満ちた目で監視し合い、告発し合うようにさせた。人間には異分子を排除したいという根強い欲求がある。異分子は自分を脅かす存在だからね。ポル・ポトは人々の弱い心につけこみ不安を煽ったのさ。国中のそこかしこで粛清の嵐が始まった。告発合戦はエスカレートして、人々はもう誰が敵でなんのためにそんなことをしているのかもわからないほど麻痺してしまったが、告発合戦が終わることはなかった。粛清するためにひたらすら粛清を続けた。国民同士がそんな闘争を繰り広げれば、権力者へ歯向かう余裕などなくなってしまう。国中でデスマッチのバトルロワイヤルを始めてしまったようなものだからな。ポル・ポトの地位はしっかり安泰というわけさ。
ここで、さっきのなぜ普通の人までが悪に加担して残酷になれるのかというテーマにつながるのだが、お互いに告発し合い、お互いに追いつめ合うようにしむけられた人々は、生き延びるために誰かを告発するよりほかになくなった。誰かを告発しなければ、自分が告発されてしまう。いじめの構造と同じだよ。人々は悪に加担することでしか、生き延びる道を得ることができなくなってしまった。生活の温もりを剝ぎ取られた人々はサバイバルのために獣になるしかなかった」
「ある意味、ポル・ポトは天才だったんですね」
「ヒトラーが天才だったようにね。人々はそうとは知らずに悪を祭り上げる。悪は自分がさも救世主であるかのように装う。だが、悪は悪の支配が目的だから、祭り上げられて権力を握ったとたんに恐怖政治を始め、人々を恐怖のどん底へ突き落としてしまう。そうなってからでは遅いのだがね。騙されたといってみたところで取り返しはつかない」
「学校を廃止したのも学校が資本主義的な要素だからですか?」
「学校は社会の仕組みを維持するための装置でもあるわけだから、当然、資本主義国家の学校は資本主義を肯定するし、そう生徒に教えこむ。その意味においては資本主義的要素といってもいいかもしれない。だが、あれは単なる反知性主義だよ。原始共産主義の国にしたのであれば、学校で子供たちにそれを教えこんで国家の体制を強化すればいいわけだからね。ポル・ポトは知識を持って自分の頭で物事を考える人間がうっとうしかっただけの話さ。あんなことをして批判されないはずがない。人々を奴隷扱いするなどというのは矛盾だらけだ。当時のカンボジアでは眼鏡をかけているだけで反革命的だといって逮捕されたそうだ。ポル・ポトは自分に逆らう人間を徹底的に排除するために愚民政策を取ったというわけさ」
「そんなものはいつまでも続かないですよね」
「だからポル・ポトの政権は四年ももたなかった。クメール・ルージュの軍隊は粛清につぐ粛清で指揮系統が混乱しきっていたから、侵攻してきたベトナム軍とポル・ポトに殺されそうになって逃れた将軍が組織した反ポル・ポト軍にあっさり首都を奪われてしまった」
「自滅しちゃったんですね」
「当然だ。もっともポル・ポト自身は辺境へ逃れてそれから二十年ほど命を長らえたがね」
「それで、それから須藤さんはどうしたのですか?」
「考えをめぐらせているうちに疲れた私はうとうとしてしまい、陽の傾いた頃に起き上がった。昼食もとらずにずっと眠り続けた。もっとも、悪い夢でも見ていたようでずいぶんと胸が苦しかった。おそらく、ずっとうなされていたのだろう。さすがに腹が減ったので近所をぶらぶらと散歩して適当に食堂へ入ってぶっかけ飯を食べたよ。豚の耳を煮込んだものが米の上にのったやつだ。味はわるくないのだろうが、私はただかきこむだけだった。
食堂を出た時には陽が完全に暮れて、あたりはもう暗くなっていた。涼しい夜風が吹いていた。街灯はほとんどなくて車のヘッドライトくらいしか明かりがない。薄暗い夜道を歩いていた私はふと殺気を感じ、思わず飛びのいた。コンクリートの塀に少年がうずくまり凄まじい形相で私を睨んでいたよ。もしよけなければ襲われていたかもしれない。少年は喰うや喰わずのホームレスさ。両親が死んでずっと路上で暮らしているのか、田舎から出てきたものの職にあぶれてしまったのか、それはわからないがとにかく家を失い、生活の温もりからかけ離れた生活を送っていることは確かだ。彼も犠牲者だ。今でもカンボジアにはそんな追いつめられた人々が大勢いるのだよ。以前に比べればずいぶんよくなったとはいえ、長年続いた内戦の爪痕はまだまだ消えずに残っている」
須藤さんは焼酎ロックのおかわりを頼んだ。今日の須藤さんはいくら飲んでも酔いそうになかった。




