表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
12/15

死の家

 

 やがて目を開いた須藤さんは海鮮サラダを皿に山盛りに取ったかと思うとあっという間に平らげ、ビールはもういいやとつぶやき黒霧島のロックを頼んだ。僕は肉じゃがを一かけら口に入れ、オレンジサワーを注文した。

「今まで話したことは気軽な旅の話だ。だが、これからはかなり重たい話をする。あの刑務所博物館で深く考えさせられてしまったのだよ。荒唐無稽こうとうむけいに聞こえることを話すから、須藤は頭がおかしくなったんじゃないかと思うかもしれない。だが、すべて私が体験したことだ。真面目に聞いてくれるな?」

 須藤さんは「真面目」という言葉にことさら力をこめ、目をぎょろりとみはった。

「もちろんですよ」

 僕はうなずいた。

「ありがとう。この話を誰かにしたくてうずうずしていたんだよ。まともに興味を持って聞いてくれるのは瀬戸くらいしかいないからな。お前なら素直に耳を傾けてくれるだろうって思っていたんだ」

「須藤さんはどこかとてつもないところがありますからね。普通の人ならありえないことでもあっさり体験してしまうんだろうなって思います」

「褒め言葉と受け取っておくよ」

「褒めているんですよ。額面どおり受け取ってください」

「トゥール・スレーン刑務所博物館は静かな住宅街のなかにあった。刑務所といっても元々は高校だったのだよ。一九七五年、ポル・ポトが率いるクメール・ルージュがプノンペンに入城してカンボジアの政権を握った。クメール・ルージュというのはカンボジア共産党のことさ。つまり、カンボジアも社会主義革命に成功したということだ。米ソががっぷり四つに組んで対峙する冷戦真っ只中の時代だ。隣のベトナムは社会主義の北ベトナムがあと少しで完全にアメリカをベトナムから追い出してベトナム全土を支配する一歩手前まで迫っていた。オセロをひっくり返すようにインドシナ半島が次々と社会主義国家になり、資本主義陣営に衝撃が走った。

 当時、カンボジアは米軍の爆撃や南ベトナム軍の侵攻のせいで田畑が破壊されてまともに農産物を生産できる状況ではなく難民が何百万人と出るありさまだった。アメリカは傀儡政権を樹立してカンボジアをコントロールしようとしたのだが、傀儡政府の腐敗が激しかったために結局都市部しか押さえられなかった。国土の大部分を占める農村部ではクメール・ルージュが支持を集め、アメリカが支援するロン・ノン政権を追いつめた。亡命したシアヌーク国王がクメール・ルージュと手を結んだことや中国共産党が支援したことも、クメール・ルージュが勢力を拡大した大きな要因だ。

 プノンペンへ入ったポル・ポトは民衆から歓呼の声で迎えられたらしい。疲弊しきったカンボジアの民衆にとってポル・ポトは期待の星だった。国民はクメール・ルージュがカンボジアを治めればすべてがよくなり、苦難から解放されるものだとばかり思っていた。だが、ポル・ポトは権力を掌握するやいなや恐怖政治を始めた。プノンペンを押さえた直後、アメリカが爆撃しにくるから避難しろと住民に命令して、当時二百万人ほどいたというプノンペンの住人を全員退去させたのだが、実はアメリカが爆撃するというのはただの口実にすぎず、目的はプノンペンを空にすることだった。連れ出された人々がプノンペンへ戻ることはなく、そのまま農村で強制労働に従事させられた。

 ポル・ポトが目指したのは農村だけを基盤にした原始共産主義社会だ。中国で毛沢東がやった文化大革命をもっと過激にしたような政治を始めたのだよ。毛沢東は中学校以上の学歴を持つ知識分子を農村へ追いやったが、この場合は、都会の人口が多くて養いきれないから人々をせっせと農村へ送り込んだという側面も強かった。が、ポル・ポトは初めから都市なんてなくしてしまうのが目的だった。ポル・ポトは原始共産主義にふさわしくないと思ったものはすべて廃止した。貨幣はなくなり、都市はゴーストタウンになり、寺は壊されて僧侶は還俗させられ、学校も廃止された。あるのは集団農場の強制労働だけ。そして、ポル・ポトはそれだけではあきたらず政府関係者と軍と民衆の粛清を始めた。なにせ国民の二割から三割が殺されたというのだから、死んだ国民の割合でいえば、スターリン、毛沢東がやった以上の大粛清さ。この時、反革命の容疑で捕まり政治犯となった人々が送られたのが、不要になった学校を刑務所に改装したトゥール・スレーンだったんだ。

 トゥール・スレーン刑務所博物館の入口には客待ちのバイクタクシーが四台ほどとまっていた。私はチケットを買ってなかへ入った。なんの変哲もない廃校の建物だよ。芝生のグランドがあってそれを囲んで三階建ての校舎が建っている。校舎とグランドの間には椰子の木が植わり、グランドの片隅には鉄棒が段違いに三つ並んでいた。長い間使われていない校舎の壁はどす黒く汚れ、亜熱帯のまっさら陽射しが燦々と降り注いでいた。

 校庭へ足を踏み入れた途端、なんともいえない重苦しさが胸を締めあげた。一見、明るくひなびたどこにでもあるような風景に見えるが、地面を照り返す光がすっかり干からびている。その光は、それにさらされると心のぬくもりが根こそぎ奪われてしまいような、ぞっとするほどの冷たさだ。 あたりの空気はみなひび割れ、その裂け目から煮腐にくたれた黒い憎悪といったものがにじみ出ている。底なしの悪意が心にべとついて胸がただれる。異様な雰囲気に思わず引き返したくなったが、それでも私はなかになにがあるのかを見たくて、刑務所として使われていた学び舎へ入った。

 部屋のなかはがらんどうだった。なにも置いていないからっぽの教室さ。窓からは明るい光が射しこんでいる。床も壁もきれいに拭いてあるのだが、壁には黄色く変色した血糊の痕が乾いたまま残っていた。隣の教室を覗くと、なにもない教室の真ん中に錆びた鉄パイプのベッドだけがぽつんと置かれ、ベッドのネットの上に四角い鉄の箱があった。その箱はアイロンくらいの大きさで、ダイヤルと針表示のメーターがついている。電流拷問の道具だ。これで政治犯の体へ電気を流しこみ、私はアメリカのスパイですだとか、革命に反対して破壊攻作を行ないましただとか、ありもしないことを自白させては無実の罪を着せていたんだ。壁には拷問された人の写真のパネルが貼ってあった。すでに死んでいるのか虫の息なのか、定かではないが、白いシーツがかかったベッドのうえに、がりがりにやせ細ってしまった人がだらりと手足を伸ばして横たわっている。その隣の教室にも同じようなベッドがあって、古ぼけた足枷と当時の囚人が着ていたという汚れたシャツを展示してあった。

 隣の部屋には殺された人たちの髑髏どくろが積み重ねてあった。なぜか空洞になった眼窩の穴から見つめられている気がする。じっと息をつめて、救いを求めるようにね。壁には囚われた人々の顔写真がぎっしり並べてある。じっとカメラを見据えている人、腫れ上がった唇で虚ろな眼をしている人、怯えている人、覚悟を決めている人、なにもわかっていない子供。いろんな表情があった。どれもごく普通の人々だ。街角や村のなかで声をかければ、快く相手してくれそうな人たちにしか見えない。彼らの顔を心に焼き付けておこうと思い、私は一つひとつ丁寧に見た。

 一階の展示室をいくつか見ただけで、途方に暮れた思いになった。

 人間というものはどこまでも残酷になれる恐ろしい生き物だ。写真を撮られた囚われ人には、髑髏になってしまった人々には、それぞれの暮らしがあり、それぞれの喜怒哀楽があっただろう。ささやかな、だがかけがえのない生活ってやつさ。この刑務所はそれをすべて奪い去ってしまい、あたりまえに暮したいというしごくまっとうな希望を牢獄へ閉じ込め電気拷問にかけてしまった。トゥール・スレーン刑務所博物館に展示してあるのは、正義の仮面を被ったとてつもない悪だ。教室の壁にはうめき声が塗りこめてあるんだ。拷問を受けて身も心もぼろぼろに傷ついて殺されるのを待つしかない人たちの絶望の呻きをね。胸の苦しさに口がやたらと渇いた。

 安物のペンキがはげかけた階段をのぼった。瘴気のなかへ入ってゆくようなとでもいえばいいのだろうか、異様な雰囲気がぐっと強まり息をするだけで胸が焼けてきた。死んだ人々の想念というものはやはりその場所に残るのだな。あたりに満ちているのは、絶望、憎悪、諦念、苦悶そういったものがまぜこぜになった想念の毒ガスだ。

 二階へあがると急ごしらえの独房がそのまま残っていた。教室のなかを粗末なレンガ塀で仕切って人ひとりがようやく入れるほどのスペースを作って並べてあるんだ。私はいよいよ気持ち悪くなり、酸っぱいものが胃の腑からこみあげてきた。いくら深く息を吸って気分を鎮めようとしても動悸がしてしかたない。澱んだ空気のせいばかりではない。ひび割れた空間の裂け目から現世うつせみの向こう側――向こう側というのがわかりにくければあの世としておこう――から張りつめた悲しみや底冷えのする憎しみのまじったぐぐもった声が低く高く聞こえてくるんだ。大勢の人々のうめき苦しむ声が鞠玉のように幾重にも重なる。胸が締めつけられる。鼓膜がつんと痛くなり、頭のなかで乾いた音が弾けた。独房の風景ががらりと変わった。

 汚れたパンツだけ履かされ餓鬼のように痩せた男がレンガ壁の薄暗がりにもたれている。ふとまわりを見渡すと、どの独房にも拷問とわずかしか与えれらない食事のためにほとんど虫の息になった囚われ人たちがいる。彼らは疲れ果てた体を横たえただ処刑されるのを待っていた。彼らもわかっているのだ。このなかへいったん入ってしまったら、次に外へ出るのは処刑場へひかれていく時だと。ここの囚人たちの刑罰は死刑しかないのだと。トゥール・スレーン刑務所には三年弱の間に一万四千人から二万人の人々が収容されたが、生き残ったのはたったの八人だけだったとされている。トゥール・スレーンが解放された時に生きて救助されたのがそれだけの人数だったというわけだ。もしかしたら脱走に成功したりこっそり助けられたりした人がいたかもしれないが、それほど多くの数ではないだろう。いずれにせよ、元高等学校の建物に次からつぎへと無辜の人々が放り込まれては無慈悲に処刑された。殺されたのは政治犯にでっちあげられた庶民ばかりではない。看守たちもトゥール・スレーンの秘密を知っている危険人物ということで粛清の対象になり次々と処刑されたそうだ。看守のあいだで内ゲバのようなことも起きたらしい。態度が気に喰わないといったちょっとしたことから理屈をつけて告発して、相手を死へ追いやったようだ。もちろん、政治犯を収容する刑務所だから、権力闘争で敗れた政治家や役人や軍人たちもここへ送られて殺されたがね。

 私は幻を消そうと思い、強く目をつむり何度もかぶりを振って幻影を振り払おうとした。いや、幻影というのは正しくないな。決して幻ではない。その時、私は確かに向こう側へ足を踏み入れていた。この世とあの世の境は案外脆いものなのだよ。人間の魂はみな向こう側からきた。だから、現世うつせみとあの世の行き来がむずかしくないのも当然と言えば当然なのだが。

 亡霊を見ていることを私は自覚していた。ただの夢だと思いたいがそうもいかない。さまよえる魂たちと触れ合ってしまった。私は観念して、

『どうしてここに坐っているんだ』

 と囚われた男に話しかけた。

『わからない。ずっとここにいる』

 男の目は虚ろだった。彼は憔悴し切っていた。頬や体中の肉がごっそり削げ落ち、生ける屍のようだ。眼の下には太い隈がこびりつき何重にも皺を作って浮かんでいる。蠟燭の灯火が消えかかる、そんな弱々しい眼の光をしていた。

『なんの罪で捕まったんだ?』

『俺の親父が死んだから葬式を出そうとした。そしたら、あいつらが親父のむくろをそのままバナナの木の下に埋めるって言うんだ。俺がなんてひどいことをするんだ、成仏できないじゃねえかって逆らったら、やつらは党に協力する気がないのかって俺を殴りつけて捕まえたんだ。反革命罪だとよ』

『どうして葬式を出すのが反革命罪なのだ?』

『それはあいつらに訊いてくれよ。親父の体をバナナの肥料にして国家建設に役立てると言っていたけどね。人体を肥料にするとバナナがよく育つんだとさ。人の亡骸をそんなふうにするだなんて俺には理解できねえよ。葬式を出すことのどこがいけないんだ?』

『葬式を出すのは当たり前のことだ。あなたは間違ってない』

『だろ、あつらは頭がいかれてるよ』

『ところでいつまでここにいる気だね』

 私は胸のむかつきをこらえながら質問を変えた。耳鳴りがして頭ががんがんする。

『あいつらが俺をしょっぴいていくまでさ。世の中のなかもかもがぶっ壊れて、もう外へ出ていいんだぜって誰かが言ってくれたらどんなにいいだろうって思うけどね』

『実は、あなたは外へ出られるんだ』

『出てしまえば殺される。怖い』

 男はさっと枯れた足を引っ込め、両手で抱えた。

『言いにくいことだが、あなたはもう死んでいるのだよ。ずいぶんと前にね』

 私は思い切って言ってみた。ごく稀にだが彼のような霊魂に出くわすことがある。自分が死んだことがわからなくて、ずっとその場所にとどまる人がいるのだ。あの刑務所には恐怖のあまりパニックに陥り、自分がすでに処刑されたことも知らずに牢獄に閉じこもったままの魂があまたといた。気の毒なことにね。彼もそんな魂のひとつだった。

『嘘だ。俺を処刑場へ連れて行くつもりだろう。――あんた、いい服を着ているな。党の幹部だろ。俺を引きずり出して殺して、自分の手柄にするつもりなんだな』

 男はかすれた叫びを上げた。その声は、傷ついた獣が最後の力を振り絞るようだった。

『信じてくれ。あなたがここへ入ってから何年経っていると思う?』

『わからない。そんなことはもう覚えていないよ。ずいぶん長い間ここに閉じ込められているような気もするし、ここへ連れてこられたのはつい昨日のことだったような気もする。とにかく、あんたは嘘つきで人殺しだ。俺の体に電気を流して拷問しろと命令したのもあんただろ』

『私はそんなことはしていない。クメール・ルージュの人間ではないからね。ここから出れば、元いた場所へ戻ることができる』

『元いた場所ってどこだよ』

『向こう側だよ。魂のふるさとだ』

『へっ、よく言うぜ。俺の親父の葬式さえ出させなかったくせに』

『信じてくれ。いっしょにここを出よう。近くの寺へ連れて行く。後は和尚がなんとかしてくれるだろう』

『嘘だ。あれを見ろ』

 男は廊下を指差した。鎖の音が重く響く。両脚と両手に鎖を嵌められた囚人たちがきつい目をした十代半ばの少年と少女に牽かれてゆく。少年と少女は看守さ。看守は能面のような無表情の顔をしている。まわりの空気が油っぽくべとついた。廊下の向こうに広がる空は誰からも見捨てられた孤独を叫ぶ夕焼け色だった。囚われ人たちはうなだれてただ黙々と従っていた。目の前の景色がぐるぐる回り出す。頭のなかに激痛が走り、私はその場に倒れこんだ」

 須藤さんは肩で息をついた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ