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小さな蓮の実

 

 僕はすこしずつ二度目の恋に慣れていった。

 京香といっしょにいる時に遥を裏切ったような気持ちになることもすくなくなった。

 ためいき色した東京の町に春一番が駆け抜け、暖かい日々と寒い日々が交互にやってきた。三寒四温。道行く人々の装いはきゅっと首をすくめたような寒い色から華やいだ色遣いのそれへ変わった。

 僕たちは毎日、僕の部屋か京香の部屋でいっしょに時を過ごしていっしょに眠った。僕は心の重石がとれたように気分が軽くなった。恋の傷は別の恋で癒すしかないと深夜ラジオで誰かが言っていたけど、ほんとうにそうなんだなと思った。

「ねえ、どうしたのよ」

 京香がいきなり僕の肩をゆさぶった。

「ええ?」

 僕は目を開けた。部屋のなかはまだ暗い。僕は枕元のライトを点けて時計を見た。午前四時だった。

「どうしたって、なにが?」

「びっくりしたのはわたしよ。急にけたけた笑うんだもの」

「夢を見ていたみたい」

「どんな夢?」

「なんだっけ」

 愉しい夢だったような気がする。落語を観て笑った後のようなすっきりしたほがらかさが胸に残っている。だけど、どんな夢だったのかはうまく思い出せない。夢はカヌーで川下りをするようにどこかへ流れて行ってしまった。もしかしたら、夢は夢のあるべき場所へ、こころのふるさとへ帰ってしまったのかもしれない。

「瀬戸君も愉快な気持ちでいてくれてるのね」

 京香はくすくす笑う。

「京香といっしょにいると気持ちが落ち着くんだ。前みたいにあんまりいろいろ悩まなくなったし」

 僕は京香の唇を吸った。しっとりと濡れた京香の瞳が僕を見つめる。

「わたしもそうよ。瀬戸君と出会えてよかった。わがままかもしれないけど、心に空いた穴を埋めてほしいの」

「僕も同じだよ。わがままでもなんでもないと思う。そうしないことには生きていかれないんだよ」

「よかった」

「毎日いっしょにいて、毎日やさしくしていれば、そんな穴なんてぜんぶふさがってしまうよ」

「ありがとう」

 京香は僕にしがみつく。僕は京香を抱きしめ、年上の匂いがする髪をなでながら彼女が軽い寝息を立てるまで見守った。

 翌日の昼前、僕たちはいっしょに僕の部屋を出た。僕は、昼から夕方まで喫茶店すずらんでバイトをしてそれから須藤さんと会う約束をしていた。京香は英会話の教室へ通い、それから僕とちょうど入れかわりにすずらんの遅番へ入って閉店まで勤める予定だった。

 その日のバイトの時間はなんの変哲もなく過ぎていった。忙しくもなく、かといってひまでもなかった。注文を取ってテーブルへ届け、空いたテーブルを拭いたりしているうちにまた次のお客さんが入ってくる。

 午後四時頃、須藤さんがすずらんへ現れた。いつもと変わらず哲学者のようないかめしい表情をしている。

「早いですね」

 僕は須藤さんに声をかけた。約束よりも一時間早かった。

「マスターに挨拶をしておこうと思ってな」

「マスターはいませんよ」

「この時間ならいるだろうってマスターが言っていたのだが――」

 そう言って須藤さんはスマートフォンを出して電話をかけた。須藤さんは話をしながら右の眉を吊り上げる。代わってくれという仕草をしたので電話に出るとマスターはコーヒーを一杯須藤さんに奢ってあげてくれと言い、あわてた風に電話を切った。

「どうも忙しいらしいですね」

 僕は言った。

「けじめだから挨拶をしておきたかったのだけど、しょうがないな」

「バイトには戻らないんですか」

「そのつもりなんだ。やりたいことができたんでね」

「坐っててくださいよ。コーヒーを運びますから」

「そうさせてもらうよ」

 須藤さんは窓際のテーブルに腰掛けた。僕がブレンドコーヒーを持っていくと、彼は哲学書を熱心に読み耽っている。邪魔をするのも悪いから、僕はそっとコーヒーカップを置いてそばを離れた。

 五時前になって京香が入ってきた。京香はカウンターに向かっておはようございますと挨拶して、須藤さんのそばへ行く。京香は二言三言彼と言葉を交わしバイトの控室へ消えた。

 京香がカウンターのなかへ入ったのと入れ替わりに僕はバイトを上がった。京香とすれ違う瞬間、誰にも見られないようにそっと手を握った。僕たちの挨拶はこれだけで十分だった。

 須藤さんとコミック専門の古本屋へ入ってぶらぶらした後、小さな居酒屋へ入った。横丁の奥まったところにある薄汚れた木造二階建ての店だった。一階はカウンターだけだったから、急な階段を上って二階へあがると、年季が入って黒光りする板張りの床に小さなテーブルが四つ並んでいた。裸電球が二つ、ぽつりとともっているだけで薄暗い。窓は一つもなくまるで洞窟のようだった。靴を脱いで一番奥のテーブル席へ行きあぐらをかいて坐った。海鮮サラダや肉じゃがや焼き鳥を適当に頼み、生ビールで乾杯した。

「瀬戸、お前はしばらくすずらんのバイトを続けるのか?」

 須藤さんの骨ばった喉仏がうまそうに動く。あっという間に中ジョッキを平らげた。僕は店員を呼び須藤さんのビールのお替りを頼んだ。

「ええまあ。ほかにすることもないですし」

「どうやら弓岡と付き合っているらしいな」

「どうしてそんなことを知っているんですか」

 僕はびっくりした。オカマさん以外の誰にも京香と付き合っていることは話していない。

「どうやら知らないのは瀬戸と彼女のふたりだけのようだな」

「みんな知っているんですか?」

「そういうものだ。隠そうとしても隠し切れないのが恋心だからな」

「知られたってべつにいいですけど。――須藤さんもロマンティックなことを言うんですね。恋愛なんて興味ないかと思っていました」

「自分が恋愛したいとは思わないね。だが、人間の行為には興味があるんだ。なにせ人間のすることは不可解で不合理で非論理的だ。謎に満ちている。もっとも、謎だらけだからこそ解明するのが面白い」

「恋は不思議ですけどね」

「まったくだ」

「彼女と付き合うことになるだなんて思ってもみなかったですし」

「人は縁に惹かれて動く。だが、どうしてそんな縁があるのか、その縁がどういうものなのか、縁の中身はまったくのブラックボックスだ。もっとも、そんなむずかしいことは考えなくても愉しく付き合っているのなら、それでいいんだけどな。今日だってカウンターのそばで手を握り合っていただろう」

「えっ?」

「丸見えだよ。瀬戸はこっそりやってるつもりかもしれないが、頭隠して尻隠さずというやつさ」

 須藤さんはあははと愉快そうに笑う。

「須藤さんはいつもそんな風に人の行動をじろじろ見ているんですか」

 僕はやれやれとため息をつきながらジョッキに口をつけた。

「見てるさ。でも、悪く取らないでくれよ。私はただ世の中になにが起きているのかを知りたいだけなんだ」

「僕みたいなどこにでもいる学生のことなんてどうでもいいでしょう」

「私にとってみれば、どうでもいい人間なんて一人もいないな。――ところで、悪口で言うんじゃないが、ちょっと気になったことがあるから、瀬戸の耳に入れておきたいと思ったんだ」

「もしかして京香がいろんなところでいろんな男と会っている、といった噂ですか?」

「そんなところだ」

「だったら僕は知っています。実際、いろんなというほどでもないけど、彼女を追いかけ回している男がいて、時々電話もかかってきます。もっとも、京香は電話に出ずに切ってしまいますけど」

「わかっているのだったらかまわない。お節介なことを言ってすまなかったな。忘れてくれ」

「とんでもないです。ありがとうございます」

「ただ、人の噂は口さがないから気をつけろよ」

「よけいなことは誰にもなんにも知られないのが一番ですよね」

「そのとおりだ」

 それから須藤さんと僕は料理をつまみながら世間話をした。すこし酔いがまわってきたところで須藤さんの旅の話に水を向けてみた。前に会った時、須藤さんはまだ話したいことがあると言っていた。僕は旅の話の続きを聞いてみたかった。須藤さんはカンボジアへ行った時のことを語り始めた。

「タイから陸路でカンボジアの国境へ入ってアンコールワットへ行った。あの遺跡は見ごたえがあったよ。アンコールワットといえば誰もが想い浮かべる有名な写真があるだろう。巨大な寺院の写真さ。あれはアンコールトムというんだが、そればかりではなくて、まわりにもいろんな遺跡があるんだ。瀬戸も機会があれば一度見に行ってごらん。あんなスケールの大きい遺跡はなかなかない。相当豊かな王朝だったようだ。私は三日間かけてゆっくり見て回ったよ。

 アンコールワットを見終わってからトンレサップ湖という大きな湖を横切る快速船に乗って首都のプノンペンへ向かった。見渡す限り湖が続いている。私はずっと船べりに坐って水平線と青い空に浮かんだ雲をぼんやり眺めていた。スピードがどれくらいなのかはわからないが、かなり速かったな。波を切り裂いてずんずん走っていくんだ。天気はよかったし、なんだか気分がすっきりしたよ。七時間ばかり船に乗ってプノンペンの街中へ着いた。カンボジアはフランスの植民地だったから、プノンペンにはフランス風の町並みが残っているんだ。もちろん、パリに比べればこじんまりしていてかわいいものだ。だから、昔はプチパリと呼ばれていたそうだ。内戦の後は相当ひどい状態になり王宮の壁もペンキが剝げて銃痕が残ったままだったりしてお粗末なありさまだったらしいが、今はだいぶよくなった。きれいな町並みだったよ。その日は疲れていたからすこし散歩しただけで早めに夕食をとって安宿のベッドへもぐりこんだ。

 翌日の朝、私は宿の一階にあるオープンカフェに坐って簡単な朝食をとった。コーヒーとフランスパンのサンドイッチに目玉焼きのついたセットメニューさ。そのホテルは街のど真ん中にあったから、朝の町の喧騒がよく見渡せたよ。表の大通りは車やバイクがクラクションをけたたましく響かせながら走っていた。車はバンパーが凹んだおんぼろのが多くて、なかにはドアの板がぼこぼこになった廃車寸前のワゴン車も走っていた。あんな無秩序なラッシュを見たのは初めてだ。みんな我勝ちに赤信号を無視して向こう側へ渡ろうとして交叉点へ突っ込んでいく。おかげで交叉点はごったがえして、車はちっとも進みやしない。立ち往生した車をせせら笑うようにバイクがその間を縫って走っていく。きちんと信号を守って譲り合えば、おたがいに楽に向こうへ行けるのにな。ただ、お行儀が悪いといえばそれまでだが、そんな感じもわるくなかった。みんなひたむきに生きている。日本では見られない光景だ。活気がみなぎっていたよ。

 コーヒーのお替りを頼んでゆっくりしていたら、あざやかな蜜柑色の袈裟をまとった僧侶の一団がカフェの前に現れた。僧侶はみな七八歳から十五歳くらいまでの少年で、十五人ばかりいたよ。露にした右肩の肌がつややかな褐色だった。少年たちはみな半紡錘形で底がわずかに平らになった素焼きの鉢を抱えていた。一番おちびちゃんの男の子は、背中を反らせてお腹を突き出すようにして鉢を支えて、一生懸命に両手で握っているのだが、あまりに鉢が大きいから小さな掌から今にもこぼれ落ちてしまいそうだった。朝の涼しい風が吹いているのに、みんな坊主頭から汗を流していた。

 一番背の高いリーダー格の少年がさっと右手を掲げると、僧侶たちは車の海へ入っていった。車たちは動きをとめ、彼らのために道をあけた。赤信号は無視するが、僧侶には敬意を払うんだな。汚れた車の列のなかでは、蜜柑色の袈裟がひときわ綺麗に見えたよ。

 少年僧は大通りの向こうの雑貨屋の前で一列に並んだ。雑貨屋の軒先には駄菓子の小さな袋をすだれのようにしてたくさん吊るしてあった。その奥から店の若旦那が赤子を抱いて現れたのだが、僧侶の姿を見ると急いで奥へ引っこみ、すぐに皿を持って出てきた。若旦那が恭しく合掌をしてから皿に盛った白い御飯を鉢へ入れると、僧侶たちは一斉にお辞儀する。それから、近所の人々が次々とやってきては御飯やおかずを喜捨した。やがてお布施をする人もいなくなると、少年僧たちは一列に並んで歩き始め、角を曲がって雑踏のなかへ消えていった。

 カンボジアの少年は何年かお寺へ入って修行をするそうだ。昔は寺が学校のかわりになっていて、寺で読み書きを覚えたりした。仏様に仕える大切な仕事につくというので、息子を寺へ送ることはとても名誉なことらしい。周囲の人たちが少年僧を大切にしているのは私が見てきたとおりだ。ほとんどの少年たちは一定期間を寺で過ごした後、還俗して普通の暮らしを送るのだが、彼らが父親になるとまた自分の息子を寺へ送る。こうして仏を崇める暮らしが代々受け継がれるわけだ。私自身が寺の息子だから言うわけではないが、なかなかいいものだと思ったよ。やはり人間はどこか精神的なものに意味を見い出さなければ生きてゆけるものではない。それは仏教でもキリスト教でも神道でもほかのなにかでもなんでもいいと思うのだが、そういったものにどっぷり浸かる時期というのが若いうちに必要なのだろうという気がする。そうしないことには、今の社会のようにしょせん世の中は金と権力だというつまらない人生哲学がまかり通ってしまい、目先の金のことしか考えないくだらない大人が幅をきかせてしまうと思うんだ。もちろん、宗教があれば万事なにごとも解決というわけにはいかないがね。宗教はしょせん人間のやることだから誤りだらけだ。本来の教えから外れて、余計なことばかりに気をとられ、お釈迦様がため息をつきたくなるようなつまらない争いを起こしたりする。寺に生まれ育ってその矛盾をいやというほど見てきたからね。

 朝食をすませて支度をしてカフェを一歩出ると、バイクタクシーに取り囲まれた。バイクが次々とそばへ突っ込んでくるものだから危なっかしくてしかたない。客を掴まえようと向こうは必死さ。

『ロケット砲を撃ちたくないかい。ロケット砲だぜ。連れてってやるよ』

 バイタクの若い運転手が叫ぶように言うんだ。

『拳銃はどこでも撃てるさ。日本でもタイランドでも撃てるんだ。でもロケット砲はここだけだぜ』

『ロケット砲に興味はないね』

 私は素っ気なく手を払って彼のそばを通り過ぎた。

『俺は人を撃てるところへ案内してやるぜ。人が的になるんだ。すごいだろ』

 すぐに別のバイクタクシーの運転手が話しかけてくる。私はどきっとして思わず彼の顔を見た。十五歳くらいの少年だった。目が合うと彼は白い歯を出してにっこり笑う。口にした言葉は恐ろしいものだが、笑顔は陽気で素朴そのものだったよ。

『本当さ。嘘じゃないよ。ロケット砲ならよその国でも撃てるんだよ。俺は知っているんだ。でも人を撃てるのはプノンペンだけだぜ』

『私は人殺しになりたいなんて思わない』

 私は微苦笑して首を横に振った。バイクタクシーたちの脇をすり抜けて路地を歩き始めたのだが、彼らはまだ私の背中へ向かって乗っていけと叫ぶ。どこの国でもタクシーの客引きには閉口するものだが、不思議と嫌な感じはしなかった。生計を立てるために必死なだけだ。彼らの声の向こう側に、彼らの家族の姿すら見えそうな気がする。とはいえ、さっき見た少年僧に喜捨する敬虔な仏教徒の姿とバイクタクシーの運転手が放った人殺しへの誘いの言葉との距離をどう考えればいいのだろうと途惑った。どんな社会にも暗部はあるものだが、人を標的にして撃つなどというのはおいそれとできるものではない。秘密中の秘密になるようなことを言って観光客へ公然と誘いをかけるのだから、よほど混沌としていて闇の深い社会なのだろうという気がした。

 地図を頼りに三階建てのアパルトマンが並ぶ横丁をすり抜けた。古い建物なのだろうが、どの家もきれいにペンキを塗って真新しく見せている。バルコニーには洋風の飾りがついていて洗濯物が所狭しと干してあった。子供たちが布切れを丸めたボールを蹴飛ばしながら狭い路地を駆け回り、クールボックスを荷台に載せたアイスキャンデー売りのバイクがゆっくり走っていた。のんびりとしたいい眺めだったよ。

 路地を抜けて大通り沿いの歩道へ出たら、中学生くらいの少女が竹籠を置いてなにかを売っている。彼女は菅笠を被って青い服に身を包んでいた。小柄で可憐な花のような女の子だった。丸い眼と丸い鼻がとてもやさしいんだ。肌はカンボジア人らしい燃えるような褐色だった。女性の肌といえば雪肌のような白さが美しいと思っていたのだが、褐色の美しさもあるのだなとその時思った。肌の色よりも輝きのほうが大切なんだな。

 籠のなかを覗いてみると蓮の実がぎっしり入っていた。今朝採れたばかりの実なのだろう。新鮮な緑色をしていた。少女は買わないかといったことをクメール語で言う。私はカンボジアの言葉はわからないから英語でいくらだと話しかけてみたのだが、彼女は英語がわからない。メモ帖とペンを差し出して値段を書いてもらった。彼女が記した値段が高いのか安いのかはわからないが、ともかく両手に山盛りくらいの蓮の実を買ったよ。写真を撮りたかったのでカメラのレンズを向けて手真似でいいかと尋ねてみたのだが、彼女は恥ずかしがって菅笠で顔を隠してしまった。嫌がるのをむりに撮影するわけにもいかないから、私はサンキューと言ってその場を離れた。

 道すがら十徳ナイフで緑の皮をむいて蓮の実を齧った。なかは白くてやわらかい実だ。くせがなくて美味なんだ。おやつにはもってこいだよ。私は蓮の実売りの少女の顔を思い浮かべ、記憶にしっかり刻んでおこうと思った。もう二度と会うことはないだろうが、こんなふうに旅先ですこしばかり言葉を交わした人を覚えておくのもわるくない。いい思い出になるだろうからね。やがて、ぶらぶら歩いているうちに目的のトゥール・スレーン刑務所博物館に着いた。一九七〇年代後半、カンボジアにファシズムの嵐が吹き荒れていた頃の遺跡だ」

 須藤さんはふと物憂げに瞼を閉じた。



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