それぞれの物語
夕暮れの商店街は賑やかだった。すこしばかり時間に余裕があったから、花屋へ入って鉢植えを眺めたり、書店へ寄って雑誌を立ち読みしたりした。僕も夕方からすずらんでバイトだった。
「おはようございます」
僕はすずらんの扉を開けた。バイトは店へ入る時に必ず「おはようございます」と挨拶する習慣になっている。最初は奇妙だなと思ったけど、みんなそう挨拶するからじきに慣れてしまった。仕事を始める時が朝、ということなのだろう。
「おはよう」
カウンターのなかから京香が声をかけてくれた。目が合った京香はにっこり笑う。心なしかいつもよりきれいだ。華やいで見える。さっきまでの複雑な気持ちがどこかへ消し飛んだ。
「おはよう」
僕はもう一度言った。他の誰かにさとられないようにバイト先ではごくありきたりにごく自然に振る舞いたいのだけど、どうしてもどきどきしてしまう。「おはよう」以外になにか気の利いたことを言えないのかなと自分でも思うけど、なんだか胸がいっぱいになってそれしか言葉が出てこない。ついこの間までは、心にすきま風ばかり吹いてさみしく暮していたのに。店のスピーカーからサイモンとガーファンクルの『ミセス・ロビンソン』が軽やかにかかっていた。
三畳ほどの控室へ入った。ロッカーにリュックを入れ、壁にかかったエプロンをつける。控室を出てカウンターの隅のタイムカードを押し、流し台の液体石鹸をつけて手につけごしごしと洗った。これでバイトの準備は完了だ。
一階のテーブル席はほとんど埋まっていた。中身がぎっしりつまった買い物袋を席に置いた買い物帰りの客か人待ち顔の待ち合わせ客がほとんどだ。後ろで電子レンジが鳴った。京香はミートスパゲティを取り出した。
「二階のB4なの」
京香の瞳はいつもより潤んでいる。僕は心のたゆたいを隠すために照れ笑いをして、
「持っていくよ」
と、お盆にフォークとナプキンをセットして二階へ上がった。
夕暮れ時の喫茶店は忙しい。昼間は長居する人がわりといるからまだ楽なのだけど、夕方は入れ代わり立ち代わり人が入ってきては、慌しく去って行く。僕はテーブルという小島の浮かんだフロアを回遊しては注文を取り、お盆に飲み物や軽食を載せて配り歩いた。
ばたばたと忙しく動いているうちに七時過ぎになり、ようやく客がまばらになった。京香のほかに二人いたアルバイトは「おつかれさま」と言って仕事を上がった。
自動食器洗浄機にセットしたカップやソーサーを取り出しては布巾で拭って棚へ仕舞いこむ。一通り片付けが終わってほっとひと息ついた頃、
「佑弥君」
とカウンター越しに懐かしい声で呼びかけられて顔を上げた。
「篠山さん」
いつも遥の髪をカットしてくれていた美容師のオカマさんが立っていた。小熊のような丸い顔をにこにこさせている。肌の艶がよくなったようだ。盛り上がった頬がてかてか光っていた。
「お久し振りねえ。通りかかったら佑弥君の姿が見えたからちょっとご挨拶しようと思ったのよ。元気そうじゃない」
オカマさんはやさしく微笑む。
「ええ、おかげさまで」
僕もほほえんだ。遥と付き合っていた頃は彼女につきそってオカマさんが勤めるヘアサロンへ行き、三人で御飯を食べたりしたものだけど、遥と別れてから彼と会ったことはなかった。
「篠山さんも元気そうですね」
「うん、ちょっとね。最近いいことがあったのよ」
オカマさんはかわいらしくしなを作る。
「ねえ、ホットコーヒーをお願いできるかしら」
「もちろんですよ。――ホット、入ります」
僕は隣にいた京香へ言った。京香は目尻を下げる。彼女の瞳は好奇心に満ちた強い光を放ち、僕をじっと捕らえるように揺れ動いた。そういえば、須藤さんをのぞけば京香が僕の友人に会うのは初めてなんだなと思った。京香はサイフォンのフィルターをセットした。
お盆にコーヒーを二杯載せて二階へ上がった。ほんとはいけないのだけど京香に断って十分だけ休憩をもらうことにした。がらんとした二階ではおばあさんがひとり、片隅のテーブルでサンドイッチをつまんでいた。
「元気そうでほんとによかったわ」
オカマさんはコーヒーをひと口啜った。
「遥ちゃんからあなたたちのことは聞いたの。ごめんなさいね。あなたたちが困っていたのになんにもしてあげられなくって。電話をくれていたのはわかっていたから、返事しなくっちゃって思っていたんだけど、あまりに忙しかったからその暇もなかったの。ふたりが別れたって聞いたときは、わたしもショックだったわ。あんなにおたがいに大切にしあっていたのに――」
「心配をかけてすみませんでした」
僕は頭をさげた。
「あら、あなたがあやまることなんてないのよ」
「遥とは連絡を取っているんですか?」
「メールのやり取りをしたり、電話で話したりはするわ」
「元気になりましたか? 僕はまったく連絡していないんです」
「よくなったり、悪くなったりね。調子のいいときは電話で三十分くらい話せるんだけど、調子の悪いときは三分ももたないわ。気分の浮き沈みが激しいみたい」
「まだよくならないのですか」
僕はため息をついた。
「簡単にはいかないでしょうね。迷いの森のなかで心が折れてしまったら、誰だってへたりこんでしまうわよ」
「よくなってくれればいいのだけど」
「ほんとうね」
オカマさんと僕はふっつと黙りこんだ。それから、オカマさんはふと思い出したように、
「遥ちゃんはあなたのことをよく話すわ」
とぽつりとつぶやいた。
僕は遠くから押し寄せる海鳴りを聞くようにその言葉を聞いた。ふたりで過ごした日々が脳裡を駆け巡る。元気になった遥がもう一度ふたりでいっしょにいようって言ってくれたらどんなにいいだろうとふと思ってしまう。僕は息をつめ、コーヒーカップをじっと見つめた。
「遥ちゃんは佑弥君との思い出を大切に胸のなかにしまっているみたい。ふたりの思い出が遥ちゃんの心の支えになっているのね」
胸を揺さぶられて言葉が出てこない。懐かしくて、さびしくて、切なくて、こころのなかでいろんな絵の具の色が混じりあう。あんなことが起きなければ、今でもふたりいっしょに仲良く暮らしていたはずなのに。
「思い出させたりしてごめんね」
「遥がどんなふうなのかを聞けてよかったです」
「まだ時間がかかりそうだけど、きっとそのうちよくなるわよ。あせってもしょうがないもの」
「なんだか遥にすまない気がして。僕は遥がいたからここまでやってこられたんです。それなのに、僕は遥になんにもしてあげられない。遥のことも忘れようとしているし」
「それでいいのよ。佑弥君は佑弥君で倖せにならなくっちゃいけないのよ。いい人が見つかってよかったじゃない。一階にいた彼女が佑弥君の新しい恋人なんでしょ。綺麗なひとじゃない」
「どうしてわかるんですか」
僕は顔をあげた。オカマさんはにこにこ笑っている。
「見ればわかるわよ。恋が始まったばっかりのラブラブな感じがふたりからにじみでていたもの。まぶしかったわ」
「隠していたつもりなんですけど」
「彼女と倖せになってね。佑弥君が倖せになることが遥ちゃんの望みなんだから。遥ちゃんはもし佑弥君が許してくれるなら、いつか佑弥君と会ってみたいなって言っていたわ」
「許すもゆるさないもないですよ」
「いつまでもいいお友だちでいてあげてね」
「はい」
僕は膝のうえにおいたこぶしを握りしめた。
レジで会計を済ませた後、オカマさんはたまには髪を切りにきてと言い、手を振って店を出て行った。
「友だち?」
京香はソーサーを拭きながら言った。
「そうだよ。この近くの美容院に勤めている美容師さんなんだ」
「いつも髪を切ってもらっているの?」
「ううん、いつもじゃないけど、何回か切ってもらったことがあるよ」
「もしかして、彼はあなたのことが好きだったりするの?」
「え? どうしてそう思うの?」
「だって瀬戸君てやさし気じゃない。だから、オカマにもてるんじゃないかってふと思ったのよ」
「そんなことはないよ。ごく普通の友だちだよ。前の彼女が髪を切ってもらっていたんだ。篠山さんは前の彼女が気に入っていて、彼女をしょっちゅう誘って遊びに連れ出してくれてたんだよ。三人で映画を観に行ったり、御飯を食べたりもしたけどね」
「そう、よかったわ」
「なんで?」
「だって、オカマさんとわたしで瀬戸君の取り合いになったら複雑じゃない。それでもし瀬戸君の心が彼に傾いてしまったりしたら、わたしって女としての魅力がまったくないのかなとか、わたしってなんなのだろうって悩まなくっちゃいけないもの」
「考えすぎだよ」
僕は噴き出した。
「どうしてそんなふうに思うの?」
「わからないけど瀬戸君を独り占めしたい気分なのよ」
「篠山さんはやさしい人だよ」
僕は遥と付き合っていた頃、彼女が落ち込んだ時にずいぶん手助けしてもらったことを話した。京香は嬉しそうにただうなずきながら僕の話を聞き、
「瀬戸君のことをもっと教えてね」
ときらきらと瞳を輝かせて僕を見つめる。
「もちろんだよ」
僕も京香を見つめ返した。
九時半から閉店の準備を始めた。
京香は在庫表をチェックして、ジュースのパックやサンドイッチの材料やら、足りない分の発注をかける。さいわい、二階にはもう誰も客がいなかったから、僕は階段の入り口に看板を立てて二階をクローズにして、テーブル拭きや床のモップかけを始めた。
二階の片付けが終わった頃、ちょうど閉店になった。今日はお客さんがすくなくて追い出す人もいなかったから、さっそくふたりでいっしょに一階を片付けた。僕が椅子を次々とテーブルの上にあげ、京香がほうきと塵取りで床を掃く。京香の掃き終わったところから僕はモップをかけた。
狭い店のなかをせわしく動きながらふと肩や腕が触れ合ったりすると僕の心になんともいえないぬくもりがひろがった。ゆうべ僕は彼女を抱きしめた。お互いに持っているやさしさを交換した。たぶんやさしさは、取り替えっこするたびに大きくなるものなのだろう。すこしずつでいいから、僕と京香のやさしさが大きくなってくれればいいな。
「さあ、終わったね」
僕はふっと息を吐き出した。
「どこか飲みに行こうよ」
京香は声を弾ませる。
「その前に話があるんだ。ねえ、ちょっと坐ってよ」
僕はテーブルのうえの椅子を下ろして京香に勧め、ちょっと待ってと言って控室からリュックを持ってきた。
「今日、京香の部屋で留守番をしていたときなんだけどね――」
ふたりの男が尋ねてきたことをかいつまんで話し、鈴木千秋の手紙を京香に手渡した。京香の眉が険しく美しく吊り上がった。
京香は白い封筒を手にするとその端をやけっぱちな手つきでびりびり破き、穢いものにでも触るように白い便箋をつまみ出す。
「読んで」
京香は僕に渡した。
「いいの?」
「瀬戸君にも知っておいてもらいたいの」
「うん」
僕は手紙を読み始めた。鈴木千秋の筆跡は臆病なほど几帳面だった。
拝啓
弓岡京香様
若草萌ゆる候、ますます御清栄のこととお喜び申し上げます。
こんな手紙を差し出す無礼をお許しください。
たびたび電話を差し上げたにもかかわらずいつも電話を取っていただけませんし、メールでも何度もお便りを差し上げたのですが、いっこうに返信していただけないのではなはだ困惑致しております。きっと弓岡様は私のことを駄目な男だとばかにされておられるのでしょう。どうしようもない下劣な男だと見下しておられるのでしょう。きっとそうに違いありません。
率直に申し上げまして弓岡様は私を誤解されています。どうしてわかっていただけないのかと思うと腹立たしくて夜も眠れないほどで、枕に涙を流したり致します。嘘泣きではありません。本当に塩辛い涙を流しているのです。わたしくは行きつけの飲み屋でイカの塩辛をつまむたびに、私の涙と同じ味をしていると思ってしまいます。そして、途方に暮れてしまうのです。かたくななあなたの誤解をどうしても解きたくて、私の想いをありのままにお伝えすることに致しました。
私は決して土方様に言い付けられたから弓岡様を嫁に迎え入れようというのではありません。また、弓岡様と結婚すれば相応の財産を譲っていただけると土方様から言われたからでもありません。私は初めてお会いした時から容姿も心も美しい方だなとお慕い申し上げておりました。弓岡様に接する時の私の態度がつっけんどんに見えたのなら、それは仕事上のことであり、弓岡様に個人的な感情をお見せするわけにも参らなかったからなのです。もし私の気持ちをあなたに悟られてしまい、弓岡様が土方様へそのことをお知らせすれば私は身の破滅です。弓岡様がどのような方かも存じ上げておりませんでしたので、完全に貴女を信じるわけにもいかなかったのです。土方様の激しい気性はあなたもよく御存知のはずです。
私は弓岡様といっしょに家庭を築き幸せになりたいと心底願っております。あなたをしあわせにすることが私の一生の務めだと信じております。この心からの願いをどうか一字一句疑わずに文字通りに御理解ください。正真正銘の一字一句通りです。適当な嘘をついているわけではありません。やましい気持ちなど私にはひとつもないのです。私はどこからどこまでも善意だけでこの手紙をあなたに書いています。今では、弓岡様を笑顔にするために私は生まれてきたのだと深く深く深く感じております。あなたの素晴らしい将来を私がお約束申し上げます。
ですから、どうか電話に出てください。私のメールに返事をください。コミュニケーションをとらなければなにごとも始まらないのですから。話しさえしていただければ、弓岡様の誤解も解け、私が真摯に真実にあなたとの結婚を望んでいることを必ず御理解いただけると思います。そして、弓岡様が御自身の人生を私に委ねようと決意していただけるものと信じております。
私の真心は御伝え致しました。弓岡様とお話できるのを千切れるほど首を長くして楽しみに待っております。最後にひと言申し添えておきますが、土方様も私どもが話し合うことを望んでおられるのです。あなたも土方様には恩義があるはずです。土方様の意向を無視することなどできないしょう。よくよくお考えください。
敬具
鈴木千秋
僕は手紙を置き、京香の瞳を見つめた。京香の眼にはなにかを見てしまった人だけが持つ哀しみが宿っている。バレンタインデーの夜、ふたりで焼き鳥を食べた時に見せた眼だった。僕たちは暗い落とし穴でも覗きこむように黙りこくった。やがて、京香は深いため息をつき、
「なにが真心よ。あきれたわ。よくも抜けぬけと嘘をつけるものだわね」
ときれいな唇の端を怒りにゆがめる。
「変な人だったよ。相手にすることないだろう。この手紙の文面だったなんだかおかしいし。無視してればそのうちむこうはあきらめるよ」
「もしほんとうにわたしのことを愛しているのだったら、わたしの倖せを想ってあきらめるはずよ。でも、そうじゃないから最後のさいごまであきらめないと思う。あいつは必死だもの。わたしだって無視したいのはやまやまだし、今はそうしているけど、そのうち決着をつけなくっちゃいけない時がくるんだわ」
「土方様って出てくるけど、どんな人なの?」
僕が訊くと京香は唇を噛みしめてうつむいてしまった。
「ごめん、いけないことを訊いちゃったかな」
僕はあわてて話さなくていいからと手を振った。僕が手紙を読んでいるあいだ、土方の名前が出てくるたびに京香は悲しそうに目を伏せたり、瞳を瞬かせたりしていた。
「いいのよ。でも、ごめんなさい。今晩はまだ土方さんの話しをする心の準備ができていないの。いろいろあったから――。近いうちにきっと話すわ」
「いつでもいいんだよ。話せるようになってからでいいから」
京香の表情を見てふと暗い雲がかかったような心持ちになった。僕には理解できない大人の複雑な事情があるのかもしれない。だけど、僕はすぐに気にしないことにして、心の片隅に浮かんだ不安や猜疑を追い払った。
「それでさ、五島さんのほうは――」
「あの人とはもう終わったわ。一時期は付き合っているような感じだったこともあるんだけど、違ったのよ。やっぱり友だちでいましょうって言ってわかれたわ。強引なところがあるし、わたしを置いてきぼりにしてどんどん先へ進んじゃうから、ついていけなかったの。わたしは手を引っ張っていってもらうんじゃなくって、瀬戸君みたいにやさしくくるんでほしいのよ」
「プレゼントを渡したがっていたし、あきらめたわけじゃないって彼は言っていたけど」
「あきらめてもらうしかないわ。プレゼントも受け取れない。彼が求めているのはわたしじゃないし、わたしはなにかの代わりにはなれないもの。男気があっていい人よ。でも、彼はほかの人といっしょになったほうがしあわせになれると思うわ」
「男気か」
僕は電車のなかで五島がすりを捕まえたことを話した。
「そんな人よ。悪いことを見過ごせない性格なの。弱い人にはやさしいわ。わたしも何度も助けてもらった。でも、もう終わったのよ。彼がごく普通の友だちになりたいというのだったら、わたしも友だち付き合いをしたいって思うけど。――会うつもりはないわ。俊介がわたしを女として見ている間はね。もし会えば、ひどいことを言って彼を遠ざけるしかないもの。失礼なことになっちゃうし、傷つけることにもなるから。理不尽なことになるでしょ。いろいろと世話をしてくれて感謝はしているんだけど。――ごめんね。こんな重たい話をして」
「全然かまわないよ。僕だって京香のことを知りたいから」
「わたしは瀬戸君といっしょにいたいわ。瀬戸君に甘えていたいの。わたしをやさしくつつんでね」
「もちろんだよ」
僕は京香の手をそっと握った。冷たい手だった。僕はこすって温めてあげた。京香は目の縁をうるませながらうなずく。
誰だって過去はあるだろう。僕にだって過去はある。人はそれぞれの物語を生きている。僕にしても遥と付き合っていたことが完全に吹っ切れたわけでもない。いろんな出来事の積み重ねのうえに今の僕がいる。それは京香でも、誰でも同じことだ。過去になにがあったにせよ、むりをせずに、京香も僕もすこしずつよくなっていけばいい。
「飲みに行こうか」
僕は陽気に言った。
「焼き鳥がいいわ」
「じゃ、そうしよう。ややこしい話は抜きにして、今日はいっぱい食べて、いっぱい飲もうよ」
「そうね」
僕たちは立ち上がった。




