【C01】鶴里(S16)
「地下鉄の吐息」、始発駅は桜通線の鶴里駅です。この電車の行き先は、作者すらも未だ分かりません。それでは、まもなく、発車です。
2010年、11月15日。
鶴里駅は、当時の終点・野並駅の一つ手前の駅であった。男は、栄のデパートの袋を提げて、久屋大通駅から、桜通線に乗車した。
「次は、高岳、高岳」
「次は、車道、車道」
男の名は、浅島と言った。最寄り駅は、先に述べた鶴里駅。久屋大通から鶴里までは、それなりの時間を要する。
「明日からまた仕事か……いつものごとく、桜通線で御器所まで、そこから鶴舞線で伏見……。」
それらの駅から遠ざかっているはずなのに、男の心は沈んでいた。どうしてだろう。
「やっぱり、地下鉄はこういう嫌な思いを掻き立てるから、あんまり得意ではないのだな。特に、平日は毎日乗る桜通線と鶴舞線は。」
その頃には、電車は既に御器所駅を発車し、桜山駅へ向かっていた。
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電車は新瑞橋駅を発車した。名城線やバス路線へ乗り換えようと、大勢の客が降りてゆく。このあたりで、ようやく空席が目立つようになり、久屋大通からずっとそして、今残っている乗客は、大半が終点の野並駅まで乗り続ける。桜本町駅と、彼の最寄りの鶴里駅で降りる乗客は、あまり多くない。
「ふう、ようやく座れた。ただ、次の次で降りてしまうから、正直もったいない気もするんだよな」
浅島は、そう呟いた。実際、新瑞橋から鶴里までは、5分ぐらいで着いてしまう。それを考えると、今から座るのはあまり良い判断でないかもしれない。ところが、彼の足はまさに棒になろうとしていた。いつ悲鳴を上げてもおかしくはなかったため、彼は結局座っている。
「少し、腹が減ったな。周りに乗客がたくさんいるわけではないから、まあなにがしかお菓子を食べても問題はなかろう」
そうして、彼はデパートの袋をガサゴソと漁った。そして、成り行きで買った、珍妙なお菓子を手に取る。
「ジクッキー……なかなか面白い菓子だな」
その菓子のパッケージには、古き懐中時計のようなイラストが描かれ、古風な文字で「ジクッキー」と記されていた。そのパッケージの裏には、こんなことが記されていた。
「行きたい『時』を念じて下さい……そうすれば、その『時』の記憶が蘇ってくるはずです」
彼は、なかなか面白い、と思い、そのクッキーを半分に割った。パキッという音が、車内に響く。乗客の視線は浅島に一瞬集中したが、何事もなかったかのように、再びそれぞれの世界に戻っていった。読書、会話、瞑想……。それぞれの時が、地下鉄では溶け合っている。
「まあ、戻れるとしたら、18年前が良いかな、高校2年のとき。あの頃は、社会のつらさを気にせず、自分のやりたいようにやれていた」
そして、その菓子を一口頬張った。電車はまさに、桜本町駅に到着しようとしていた。すると、突如として、強い眠気に襲われた。降車駅はこの次、寝てしまうと乗り過ごしてしまう。しかし、彼は大して気にしていなかった。鶴里の次は、終点の野並だ。だから、乗り過ごしたってダメージは小さい。だから、寝たって運転士さんが起こしてくれる。そう安心しきって彼は、眠気に誘われるまま、瞳を閉じた。
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「次は、国際センター、国際センター。」
目を覚ますと、彼はなぜか、鶴里でも野並でもなく、名古屋駅の次、国際センター駅へと向かう電車の中にいた。服装や持ち物は全く同じであるのに、位置が違う。ちゃんと記憶も残ってるのに。そうして、ふと近くの路線図に目をやった。
「え、これって昔の桜通線じゃ……」
その路線図には、今池駅から先、野並駅までの区間は示されていなかった。もちろん、彼の最寄り駅の鶴里駅も。
「まさかだけど……。」
彼は国際センター駅の次の次、久屋大通駅で降車した。そこに掲示してあったカレンダーは、1992年11月のものだった。
「なるほど、だから道行く人の服装がちょっと古っぽかったのか……って、この現象がそもそも理解できないから、納得しがたいわ」
そして、彼は悟った。あの「ジクッキー」、それが原因なのではなかろうか。あのちょっと怪しい菓子を食べたから、このようにしてタイムスリップしてしまったのではないか。作者は断言する。彼の推測は、おおむね当たっていた、と。
「やむを得ない……のか?まあ、ちょっと、昔の名古屋を楽しんでみるか」
こういう時に限って彼はポジティブだ。そして、彼は名城線に乗車した。やって来たのは、新瑞橋ゆき。今では、終電間際にしか見られない行先である。
「そうだ……子供の頃は、新瑞橋駅まで自転車で行ってたな」
少年時代の思い出を載せた電車は、久屋大通駅を出発した。とはいっても、使われている車両は現在と大して変わらないため、違和感を覚えたわけではなかった。しかし、隣の栄駅に着くやいなや、わあ、と浅島は驚いた。彼は対向列車を見て、
「黄電だ!懐かしい」
と声を発した。
黄電。東山線と名城線を走っていた、真っ黄色の電車。たしかに、現在まで走る車両は既にデビューしていたとはいえ、黄電の方が数が多かった時代である。
「扉に、ご注意願います」
彼はこの音声を聴き、懐かしさがまたこみ上げてきた。
「この独特なおばさんの声、大好きだったなあ……。今の人ももちろん温かみがあるからいいんだけど、この人のほうがクセがあって聴いていて面白いんだよな」
ゴトン、と揺れる車内。冷房は止まっていて、車内は会話で埋め尽くされている。話題の内容も時代を感じさせるもので、たとえば「ラシック」とか、「ナディアパーク」とか、「ゲートタワー」とか、「オアシス21」といった単語は登場しない。また、状況は皆、ぼうっとしていたり、広告を見ていたり、読書をしていたりしていた。現代では、携帯電話をいじる人が増えてきている中、この光景は貴重なのだ、と改めて意識した。
そうして、物想いにふけっていたところ、早くも列車は金山駅に到着した。多くの乗客が吐き出された。空席もちらほら。列車は軽々とした気取りで、金山駅を出発し、一路新瑞橋へと向かっていった。
車内に余裕ができてきたので、彼は車内を見渡した。やはり目にとまったのは、路線図であった。
「鶴舞線は庄内緑地公園、桜通線は今池で終わってる……。名城線もつながってないし、『瑞穂運動場西』じゃなくて『瑞穂運動場』だし、『藤が丘』じゃなくて『藤ヶ丘』だし……。この十数年で、大きく変化したんだなあ。」
彼は改めて、現在の交通網の便利さに気付かされたのだった。
新瑞橋に着いた。
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新瑞橋からは、バスに乗り継いだ。しかし、あんまり昔のことなので、どの乗り場からのバスに乗れば良いか、迷ってしまった。
「さて、最近流行りの『スマートフォン』でっと……」
しかし、電波は圏外であった。むろん、20世紀にそのような電子機器が使えるわけがない。しかも、当時の人間からしたら、スマートフォンは得体のしれない箱であった。そのため、道行く人は皆、浅島のことを白い目で見詰めた。
「ああ、今年は1992年だ……」
彼は、誰にも聞こえないよう小声で呟いた。
すると、ちょうど目の前に、野並行きのバスが到着した。おそらく、鶴里付近も通るだろう。
「決めた、これに乗ろう」
しかし、彼は咄嗟に、重大な課題を思い出した。札では支払えないのだ。旧札を彼は持っていなかったから、両替することもできぬ。そうして、彼は急いで財布の中を確かめた。
「よかった、なんとか往復分と帰りの地下鉄の小銭はある……」
そう安心して、バスに乗り込む。
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「次は、鶴里町、鶴里町」
バスのアナウンスが、鶴里への到着を告げた。いよいよ、彼のふるさと、鶴里に到着である。他にも、何人かが降車した。
いざ降り立ってみると、風景はあまり変わっていないということに気づいた。確かに現在では、そもそも鶴里駅が存在したり、マンションが新たに建ち並んでいたり。そういえ変化はあれど、道はほとんど変わっていなかったし、古くからやっている店は、そのままだった。
「たしか、俺の家はこっちの方で……」
彼は小道を進んでいった。そこには、今とあまり変わらない日常、平穏な日々が流れていた。小学生たちが追いかけっこをしながら、公園へと走ってゆく。老人たちが、井戸端会議を熱心に行う。彼は、これまでにない懐かしさを覚えた。
「こんなんだったな、あの頃は純粋で、幸せ者だった」
果たして今はどうなのか。週6日、残業で毎日伏見のオフィスに取り残され、終電間際で帰宅する。唯一の休みである日曜日も、どこか行こうと決意しない限り、実家の一部屋で寝転がって終わってしまう。夢も希望もない、閉塞した生活。……懐かしさに変わって、不甲斐なさがこみ上げてきた。
「あの頃、俺は……俺は、宇宙飛行士になりたいと思ってた。けれど、夢のハードルは高すぎたのか?」
結局、何もできなかった。何にも。
すると、目の前から、学生がせっせと走ってきた。彼が着ていた制服には、明らかに見覚えがあった。桜台。そして、何より浅島本人に非常に似ている。
「まさか、俺か……?」
それには、相手も気づいていたようで、彼とは目が合った。二人とも、浅島。
「少年浅島、頑張るんだぞ」
彼は走りゆくその背中に、エールを贈った。
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「ところで、どうやって現代へ帰ろうか?」
彼はひとしきり鶴里周辺を散策した後、上のような疑問を抱いた。確かにこの時代は楽しかったが、肝心の家は現代にあり、そこに帰らねばならない。彼は、ジクッキーの説明を読み返す。
「……仮にその時代に行き、そして帰りたくなったときは、同じシチュエーションで、帰りたい時代、即ち現代を思い浮かべてください。」
彼は、その「同じシチュエーション」という部分が引っかかった。これは、地下鉄にのっているだけでよいのか、それとも桜通線の桜本町らへんで念ぜばならないのか。仮に「同じシチュエーション」が後者だったならば、浅島は現代に帰れない。
「……少し怪しいな。どうすれば良かろうか」
彼は、新瑞橋ゆきのバスを待ちながら、思案にくれた。
彼はそうして、一種の結論に至った。なるべく同じシチュエーションで、そのジクッキーを食す。すなわち、以下の条件でそれを食べる、ということである。
イ・桜通線の今池行に乗車する。
ロ・終着駅の2つ前の駅に着くタイミングで、食べる。
ハ・そして寝る。
これは、ある意味の賭けでもあった。成功したら現代、失敗したら思い入れのない時代そして所。彼は、新瑞橋駅から再び名城線に乗り、久屋大通へと向かう。時刻は18時を回り、日は完全に沈んでいた。
そして、電車は神宮西、金山、上前津と主要駅を過ぎてゆき、久屋大通駅に到着した。いよいよ乗り換えのときである。
「この電車は、今池ゆきです……」
来た電車に彼は乗車した。車内はそれなりに空いていて、東山線のバイパスとしての機能を果たせているのか、と少々疑問に感ず。
「この電車は、今池ゆきです。次は、高岳、高岳。」
高岳、次である。ここで例のクッキーを食べ、寝る。車道駅で降りるつもりで、食べる。やはり地下鉄は駅間が短く、割とすぐに、電車は高岳駅のホームに滑り込んだ。
「さあ、食べるぞ」
彼はその菓子を一口頬張った。2010年、11月15日の桜通線を想像して……。そして、やはり眠気が彼を襲った。作戦は成功か……?
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はっと目を覚ますと、浅島は桜通線の電車の中にいた。ふと車内の案内表示器に目をやると、「野並ゆき」「ここは 桜本町」。そして、スマートフォンを見てみると、きちんと電波の届く範囲にいた。そのうえ、日付の表示は、きちんと「2010/11/15」となっていた。現在に戻って来れたのだ。
「次は、鶴里、鶴里。」
結局、放送はいつも通りだった。彼は、混沌とした日常に戻ってきたのだ、と改めて実感する。
「明日は、また仕事か。」
彼は、揺れる地下鉄の車内で、またこの思いに囚われていた。そうして電車は、鶴里駅のホームに滑り込む。中村区役所行は既に出てしまったようで、待ち人はほとんどいない。
「この電車は、野並行です。」
いつもの音声が彼を包み込む。階段を上がって、切符を改札に通し、出口へと向かう。地上に出ると、周りは既に暗くなっていた。ちらほら星空も見えている。
「日々は過酷だが……もう少し、頑張ってみるよ。昔の俺に胸張って自慢できるぐらいには」
彼は、そうして帰路についた。
2010年、11月15日。
桜通線の、中村区役所発、野並ゆき。6119編成。
鶴里にて。
ご乗車、ありがとうございました。次は、たぶん名城線のある駅です。お忘れ物のないようお支度ください。




