水または十分な水分とともにお飲みください
※本作は『用法・用量を守って正しくお使いください』の続編です。
前作の結末を含む内容となっていますので、先に前作をお読みいただいた方が、より楽しめると思います。
前作はシリーズ一覧からお読みいただけます。
十年前、村に四人の旅人が来た。
そのうちの一人は、井戸のそばで何度もこめかみを押さえていた。
「どこへ行くの?」
「砂漠の奥だよ」
「何しに?」
「神殿があるらしい。そこに頭痛薬があるんだと」
「砂漠なのに?」
男は少し笑った。
「そうらしい」
「水、あるの?」
一瞬だけ、男が黙った。
「さあ。神殿なんだから、あるんじゃないか」
翌朝、四人は村を出た。
帰ってこなかった。
それから十年後。
成人した朝、私にも神罰が来た。
どくん。
頭の奥で何かが鳴った。
その瞬間、十年前の男の顔を思い出した。
あの人も、こんな音を聞いていたのだろうか。
三日で嫌になった。
十日で腹が立った。
一月経つ頃には、考えることすら億劫になっていた。
それが何より許せなかった。
私は昔から、分からないことをそのままにするのが嫌いだった。
なのに今は、考えようとするたびに頭の奥で音が鳴る。
どくん。
砂漠。
神殿。
帰ってこなかった四人。
そして、十年前の自分の声。
水、あるの?
そこまで考えたところで、また痛みが思考を押し潰した。
「もう……!」
こめかみを押さえる。
いつもそうだった。
何かを掴みかけるたびに痛みが強くなる。
考えるなとでも言われているようで、余計に腹が立った。
頭痛薬を求めて砂漠へ行くと決めた。
同行してくれるのは、幼馴染のハルトたち三人だった。
食料、天幕、砂除けの布。
そして水。
砂漠を往復するなら八袋ほどあれば足りると言われた。
「十二持っていく」
ハルトが荷を見た。
「多すぎるだろ」
「分かってる」
「重くなるぞ」
「それも分かってる」
「じゃあ、なんで」
帰ってこなかった四人。
砂漠の奥にある薬。
子どもの頃に自分が尋ねた水のこと。
そこまで並べたところで、また痛みが押し寄せた。
「……分からない」
「は?」
「分からないけど、嫌なの。水だけは余分に持っていく」
理由になっていない。
自分でも分かっていた。
それでも減らす気にはなれなかった。
砂漠へ入った初日、神殿はすぐに見つかった。
陽炎の向こうに白い建物が立っている。
思っていたよりずっと近い。
「明日には着けそうだな」
ハルトが言った。
私もそう思った。
次の日になっても、神殿は同じところにあった。
三日目も。
四日目も。
歩いている。
足は痛い。靴の中には砂が入り、肩には荷の重さが残っている。
それだけ進んだはずなのに、白い神殿は昨日と同じ大きさで立っていた。
「ねえ、おかしくない?」
「砂漠だから距離感が狂うんじゃないか」
「でも――」
昨日。
一昨日。
その前。
神殿はどのくらいの大きさに見えていた。
太陽はどこにあった。
私たちはどれだけ歩いた。
比べれば何か分かるはずだった。
どくん。
痛みが全部まとめて押し潰した。
「っ……!」
思わず頭を抱えた。
「大丈夫か?」
「大丈夫じゃない」
腹が立った。
神殿にも。
頭痛にも。
まともに考えられない自分にも。
五日目、水の減りが予定を超えた。
「予備を開けよう」
ハルトが言った。
「駄目」
「まだ四袋あるだろ」
「これは残す」
「何のための予備だよ」
「だから、何かあったときのために――」
「今が何かあったときだろ」
言い返せなかった。
喉は乾いている。
皆も疲れていた。
ここで飲む方が正しいのかもしれない。
でも、神殿を見る。
すぐそこにあるように見える。
昨日もそうだった。
一昨日も。
「……嫌」
「何が?」
「ここで飲むのは嫌」
「だから理由を――」
「分からないって言ってるでしょ!」
声を荒げた瞬間、頭の奥を強く叩かれた。
視界が揺れる。
膝に手をついて耐えた。
考えたい。
どうして嫌なのか。
どうして水だけは残したいのか。
自分のことなのに、頭が痛いせいで答えまで行かせてもらえない。
「……ごめん」
息を整えながら水袋を抱えた。
「でも、神殿まで持っていく」
ハルトは何も言わなかった。
六日目。
喉が焼けるように乾いた。
唇が切れた。
予備の水はある。
栓を抜けばいい。
一口飲めば楽になる。
何度も手を伸ばした。
そのたびに十年前の声が浮かんだ。
水、あるの?
七日目の昼。
ようやく白い階段の前に立った。
近くに見えてから、七日も歩いた。
「……何なのよ」
神殿を見上げた。
腹が立った。
周囲には砂しかない。
木もない。
草もない。
井戸もない。
川などあるはずもなかった。
白い神殿だけが、何事もなかったように立っている。
中へ入る。
外の暑さが嘘のように涼しかった。
入口に人骨があった。
その先にもあった。
祭壇へ近づくほど増えていく。
刃物で傷ついた骨。
砕けた頭蓋骨。
別の骨の腕を掴んだまま残っている手。
「これ……魔物じゃないよな」
ハルトが言った。
分かっている。
でも、どうして。
ここまで来た。
薬を見つけた。
そのあとで、なぜ仲間同士で――。
どくん。
また痛みが考えを叩き潰した。
「もう、邪魔しないでよ……」
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。
祭壇には小さな箱が四つ並んでいた。
どれにも同じ文字がある。
『頭痛薬』
その横に薄い板が置かれていた。
『頭痛薬は、本神殿外への持ち出しを禁じます』
『本神殿への入殿は、生涯に一度限りです』
『服用の際は、水または十分な水分とともにお飲みください』
『用法・用量を守ってお飲みください』
水。
その文字だけが目に残った。
十年前。
井戸のそば。
『水、あるの?』
寒気がした。
私は荷を下ろした。
残していた水袋を取り出す。
手が震えていた。
もし、あのとき開けていたら。
神殿がすぐそこだからと飲んでいたら。
外にある骨。
祭壇の前にある骨。
刃物の傷。
嫌でも意味が見え始める。
「……もういい」
箱から薬を取った。
口に入れる。
水で流し込んだ。
少し待った。
どくん。
もう一度だけ鳴った。
それきり、何も聞こえなくなった。
痛くない。
目の奥も。
こめかみも。
頭の奥も。
静かだった。
考えても、痛くならない。
なら。
考える。
砂漠へ入ったときから見えていた神殿。
すぐ近くに見せて、七日も歩かせた。
その間に水は減る。
ようやく着いても、周囲に水はない。
薬は持ち出せない。
入れるのは生涯に一度。
それなのに、服用には水分を要求する。
ここまで来た人間は薬を目の前にして、水がないことを知る。
そして。
仲間を見る。
床の骨を見る。
十年前、帰ってこなかった四人を思い出した。
あの人たちも、ここまで来たのだとしたら。
「……最低」
声が漏れた。
「どうした?」
「最低」
祭壇を見た。
「最低。最低、最低……! 何が神罰よ!」
拳を叩きつけた。声が白い神殿に響いた。
「頭を痛くして、薬があるって教えて、こんなところまで歩かせて!」
水を削る。
薬を見せる。
水分が必要だと最後に教える。
仲間の身体には水分がある。
追い詰められた人間なら、いずれそこへ行き着く。
「これをさせたかったんでしょう!」
骨を指さした。
「殺したいなら自分で殺せばいいじゃない!」
声が震えた。
涙が滲んだ。
悲しいからではなかった。
「なんで私たちに殺させるのよ!」
返事はない。
白い壁が声を返すだけだった。
それがまた腹立たしかった。
祭壇を睨んでいるうちに、四つの箱が目に入った。
四つ。
私たちも四人。
「……待って」
「どうした?」
「箱が四つある」
「俺たちも四人だな」
「そうじゃなくて」
もし。
四人で入ったから、四つなのだとしたら。
神はここへ入った人数を知っている。
全員分の薬を用意できる。
全員を助けられる。
それなのに。
水だけは用意しない。
胃の奥がひっくり返りそうになった。
「確かめたい」
「薬の数を?」
「うん」
「でも、お前はもう入れないぞ」
板を見る。
生涯に一度限り。
最後までよくできている。
「私が入らなきゃいい」
村へ戻った。
次に頭痛に耐えられなくなった男が神殿へ向かうと聞き、私は同行した。
砂漠の入口からは神殿を見ず、歩いた日数と方角を頼りに進んだ。
私は入口で待った。
男は一人で中へ入った。
戻ってきた男に尋ねた。
「箱はいくつあった?」
「一つだけど?」
次は二人。
二つだった。
三人なら三つだった。
何度確かめても同じだった。
神は知っていた。
何人入ったのか。
全員分の薬を用意していた。
水だけを、用意しなかった。
もう偶然とは思えなかった。
あの神殿そのものが、神罰だった。
頭痛を与えるだけでは終わらない。
救いを目の前に置き、人間が何をするのかまで含めて罰にしている。
そう思ったら、また腹が立った。
頭痛はもうない。
だから今度は、その怒りの行き着く先まで考えられた。
私は村長のところへ行った。
「砂漠に道を作りたいです」
「神殿まで?」
「はい」
「神罰に逆らうつもりか」
「きちんと神殿には行きます。薬もそこで飲みます」
それは変えられない。
でも。
「どこまで苦しむかまで、あいつに決めさせるつもりはありません」
私はそれから最初に杭を立てた。
神殿は見ない。
次の杭だけを見る。
一定の距離ごとに水用の壺を置いた。
屋根だけの休憩所を作った。
帰ってきた者には、壺の水が減っていれば村へ知らせてもらった。
やがて、水を運ぶために砂漠へ入る者も現れた。
何年もかかった。
ある日、砂漠へ向かう夫婦とすれ違った。
二人とも、ときどき額を押さえている。
荷車には水袋が積まれていた。
「神殿は、この道で合っていますか?」
「合ってます」
私は砂漠の向こうを見た。
白い神殿は、今日もすぐ近くに見えている。
「あれは見ないでください」
「え?」
「杭だけを見て進んでください。最後の水は、必ず神殿まで残して」
二人は頷いた。
杭を追って砂漠の奥へ歩いていく。
その背中を見ながら、十年前の四人を思い出した。
あの人たちには、道がなかった。
最後に水が必要だとも知らなかった。
神殿が嘘の距離を見せることも。
今は違う。
神は変わらない。
神罰も変わらない。
薬の注意書きも変わらない。
なら、こちらが変わればいい。
神は薬を持ち出すことを禁じた。
水を持ち込むなとは、一言も書いていなかった。
やがて白い神殿へ続く道には、薬を求める者よりも多くの人間が、水を運ぶために行き来するようになった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
『水または十分な水分とともにお飲みください』は、前作と同じ頭痛薬の注意書きから考えた短編です。
与えられた理不尽は変えられない。
それでも、その中でどう生きるかまでは決められない。
そんな人間なりの抵抗を描いた物語として書きました。
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