邪悪だと思っていた魔女を追い詰めた侯爵、すべてを思い出した時にはもう遅かった
リュナートは、あの魔女を殺せないことに苛立っていた。
彼は王国東部最大の領地を有するエレニーフォリョー侯爵家の若き当主であり、その威名は広く轟き、東国において彼に抗う者はほとんど存在しない、比類なき権勢を誇る男であった。
しかし、その彼の意のままにならないことがあった。
それは、城に巣食う魔女の存在だった。
憎らしい魔女は、侯爵の城の北のはずれにある古い塔に住み着き、ずっと嫌がらせをしてくるのだ。
彼女は塔から離れず、ずっとそこにいる。登るとよい風が吹いてくる、昔から気に入っていた塔だったのに、あの女のせいで、今では大嫌いな塔になってしまった。
思い出を台無しにしている魔女は、たまに、外に出て散歩をするくらいで、ずっと塔の中で邪悪な魔法を使っているのだろう。
それにもかかわらず、侯爵は何ともすることが出来ない。
魔女に手を出せないことには、理由があった。
それは魔女が契約書を所持していることだ。
極めて不愉快なことに、それは強力な魔法によって守護され、いかなる攻撃も受け付けぬ代物であった。
その内容は、魔女が自ら終わりを定めるまで、その塔の使用を自由に認めるというものだ。
それは魔女と侯爵本人との間で交わされた契約であり、後から覆すことはできない。
忌々しいことに、自分がいつそれに署名したのか覚えていないことが、不愉快さの半分を占めていた。
侯爵は、魔女に魔法をかけられ、勝手に署名させられたのではないかと疑っている。そんな契約は無効にできるはずだ!
しかし、信頼できる神官の話では、その契約は神の名によって行われる、正当なもので、そのような不正は通用しない代物であるということであった。そして、神官はその契約を守り、魔女を手厚く遇するようにとまで言ってくる始末だった。
『魔法や呪いというものは、解けば消えるのではなく、術者へ還る性質を持ちます。この場合、契約を破れば侯爵様に神からの罰が下るでしょう。おろそかにしてはなりませんぞ』
さらには、言うに事欠いて、こんな説教までしてきた。
この実直そうな男でさえも、魔女は篭絡したのだろうか。まったくもって腹立たしい!
では一体、自分はいつ、そんなものに署名したのだろうか?
侯爵自身は、魔女をひどく嫌っている。
魔女は、若い女性で、見た目は美しいともいえる女だったが、ひどく憎らしい表情をしてこちらを見てくるのだ。
魔女は吐き気を催すような声で話し、近くにいるだけで不愉快になる女だと侯爵は思っていた。だが、その邪悪さは誰にも伝わっていないようだった。
侯爵は、魔女に、何度か穏便に城から出て行ってくれるよう、新しい住処と、暮らすのに困らない大金を与えるという手紙を持たせた使者を出したのに、無視されている。
使者によれば、魔女は侯爵からの手紙を読みもしないとのことであった。
しかも、魔女は、侯爵以外の城の者とは仲良くしているようなのだ!
侯爵が魔女を嫌っているということを皆知っているから、表立って魔女に便宜を図っているものは見えないが、それでも、魔女はどこからか食料を仕入れたり、城壁の影の見えぬ場所でひそひそと何者かと話をしているようだった。
あの魔女が同じ城に住んでいるというだけで、侯爵は不安で眠れない夜さえあるのに。
日にちが過ぎるにつれて、魔女を憎む気持ちが高まり、心が破裂しそうなほどに我慢できなくなった侯爵は考えた末に、城の者に「魔女に近づくな!そして近づく者を牢に入れろ!」と命令を出した。その命令であるならば、魔女と交わした契約には背かないのだ。
そして、自身で、飛びかかって首を絞めたくなるような憎悪を我慢しながら、魔女の住むみすぼらしい塔の前に兵士を配置し、魔女に食料や日用品が届きにくいように手配した。
大臣や、神官は、契約を守るよう、魔女に構わぬようにと再三忠告しに来たが、この者たちは魔女の魔法でどうかしているのだろう。
あんな邪悪な魔女が同じ城にいることによく耐えられるものだ!処罰してやろうかとも考えたが、しかし、彼らは父の代からよく仕えてきてくれた忠臣。魔女のこと以外では、申し分のない者たちだ。そのことに免じて、我慢をすることにした。
塔の外に出ることが出来なかった魔女はとても困ったようだったが、抗わなかった。
しかしそれでも、魔女は、そこにいることをやめなかった。
魔法で何とかしているのか、食料も水も手に入らないのに、魔女は平気な顔をして暮らしていたので、侯爵は本当に腹を立てていた。
それから一度の冬が過ぎ、二度目の冬になっても、その状況は変わらなかった。
魔女は何も言わず、何も求めず、ただ日々を過ごしていた。
そうしていると、真冬のある日を境に、魔女の姿を見ることが少なくなったという報告が来るようになった。
久しぶりに、その姿を見た兵士の報告で、魔女の体が目に見えて衰えていることがわかった。
もう少しだ。侯爵はほくそ笑んだ。
さらにしばらくしてから、召使いに魔女の様子を見に行かせると、彼女は痩せ細り、立つこともできず、寝たきりになっているとのことで、呼びかけても声もかすれてろくに返事が出来なくなってしまったようだった。
待っていたのだ、その時を。
そこで、侯爵は、魔女に郊外の素晴らしい邸宅と、よい医者と薬、真面目な召使い、一生暮らしていくのに十分な金を渡すことを条件に、塔から出ていくことを提案する使者を送った。
この状況だ。
この使者は成功するだろうと思っていた侯爵の望みは、裏切られることになった。
あの気味の悪い魔女は、動けなくなって、声もろくに出なくなっても、その塔に留まることを望んだというのだ。
なんて嫌な奴なんだ!と侯爵は心から腹を立てた。
ならば、と、魔女が死ぬまで、物が届かぬようにと塔の周りを囲む兵士たちに改めて強く命令すると、兵士たちは悲しげな顔でそれに従った。
たしかに、女一人にここまでするのは騎士らしい振る舞いではないが、邪悪な魔女を城の中に住まわすという不安に比べればいかほどでもないのだ。
■
寒い冬のある晩、塔を包囲する見張りの兵士の目を盗んで、塔に忍び込む者がいた。
彼は、凄腕の戦士だったので、音もたてずに入り込むと、密かに塔を上り魔女に会った。
その男は、魔女の姿を見るや否や、彼女が臥せる横にひざまずき、涙を流した。
「おお、おいたわしやネリーナ姫、なんというお姿に」
「……カディス、よく……帰ってきてくれました……机の上の薬を飲ませて」
魔女、ネリーナは息も絶え絶えになりながらなんとか返事をした。
カディスが、薬箱を開けると、残り一つだけとなった魔法の丸薬をネリーナに飲ませた。
しばらくすると、ネリーナがほんの少し、元気を取り戻したようだった。
「……わずかな間、楽になる薬です。残しておいてよかったわ。それでカディス、どうでしたか」
「ネリーナ姫!このカディス、ようやく万能の薬、エリクサーを手に入れてまいりましたぞ!」
忍び込んでいるので、密かに囁くような声であるのに、その興奮が隠せないような声で、カディスは、自分が使命を果たしたことを伝えた。
「よくぞ成し遂げてくれました。ありがとうカディス。本当にありがとう」
「……姫、どうかこの薬は姫様がお使いください。お命が持ちませぬ」
「だめよ、カディス。それはだめよ。私の望みは、それをリュナートに使うことなの。それは変わらないわ」
「ですが、姫。姫のお命が……それに、姫をこんな目に合わせたあんな男なんかに……!」
「この魔法の秘密は教えたでしょう。彼から離れてしまえば保てないのです」
「…………」
「近くにいれば、こうなることはわかっていたのですから……自分で選んだことなのです」
「姫様……」
「カディス。私はちっとも後悔していないのよ。あの時、あの呪いの魔法を使わなければ、リュナートは死んで侯爵家は滅び、この領地はもちろん、東国全土が荒廃することになるところだったのだから」
「ですが……」
「知らぬ間に魔族はすぐ近くまで迫っていたのです。……よいのです、カディス。よいのです」
「姫……」
「実のところ、あなたは本当に寸でのところで間に合ってくれたのです。私の魔力はあともう少しで尽きるところだったのですから」
「おお、なんと……おいたわしや……」
「私の魔力が尽きれば、リュナートにかけた呪いは解け、彼は死んでいたでしょう。それこそ、私が最も避けたいことです。カディス、もう時間がありません。急ぎ、そのエリクサーをリュナートに。本当に急がないと間に合わないかもしれません」
「はっ……姫……」
「そなたを信じ、最後の薬を取っておいてよかったわ。でも、それでも残りの時はほんのわずか……」
「…………」
「無事に事が済んだら、その机の中の手紙を父と、母と、それからリュナートに渡してください。父には、あなたの忠節に見合った褒賞を与えるように書きましたから」
「ひ、姫様…………」
「お別れです。お前がリュナートに薬をかけ終える、その時まで……何とか生き延びます。急いで……」
カディスは涙を拭き、入ってきたときの様に密かに塔を出ると、侯爵の寝所へと向かった。
■
寝ている侯爵を、召使いが起こした。
「侯爵様、お目覚めください」
「なんだ、何事だ、今は何時だ」
「真夜中二時でございます。侯爵様、聖騎士カディス卿が、火急の要件とのことでどうしても御目通り願いたいと」
「なんだと?カディスが?…………会おう」
侯爵が寝所の外に出ると、聖騎士カディスがひざまずいていた。
「ご無沙汰しております、侯爵様」
「久しいな、カディス。どうしていたのだ?」
「実は、これを手に入れるための、探索の旅に出ていたのです」
カディスは、美しい瓶に入った光る液体を取り出し、掲げた。その神々しい光は、大いなる魔力を秘めたものだとひと目でわかるものだった。
「な、なんだそれは」
「これは、エリクサーです。全ての病を癒し、傷をふさぎ、呪いを解く。そして……死人さえも生き返らせることが出来る神の薬です」
「おお、すごいではないか。……なぜそれを?」
「それは……こうするためです、御免」
そう言うや、カディスはエリクサーの蓋を取り、すべてを侯爵へあびせかけた。
「な、なにをする……!!!」
エリクサーを振りかけられた侯爵は一瞬光ると、黒い煙が立ち上り、もう一度光るとその煙は消えて、光も消えた。
リュナートの視界が白く染まり、次の瞬間、すべてが流れ込んでくる。
記憶だった。
忘れていた記憶。
愛する婚約者、ネリーナとの幸せな日々。
そして――惨劇。
父と自分に襲い掛かる暗殺者。
血まみれの父と、腹を刺された自分。
毒の刃。
叫ぶネリーナ。
……俺はどうなったのだ?死んだのでは?なぜ生きている?
「カディス、俺は襲われたのではなかったのか?どうなっているんだ?ネリーナは無事か?」
「ネリーナ姫が、魔法を使ったのです」
「魔法?俺の傷は致命傷だった。蘇生の魔法など聞いたことが無い」
「魔族の魔法を変化させて使ったのです。あの日、父君とリュナート様を襲った魔族の暗殺者は、不死となり相手を殺すまで憎み続ける呪いをかけられていたのです」
「そんな強力な呪いがあるのか。たしかに、曲者の胸を突いたのに、俺はやられたのだ」
「はっ。そして、ネリーナ姫は、その呪いを解呪し、暗殺者を見事に討ち果たしました」
「おお……流石はネリーナ、無事か!」
「そして、ネリーナ姫は、その魔族の呪いを、利用したのです」
「なんだと?」
「解呪した呪いが呪者に還る前に、それを自らのものとし、殺す相手を変えて、あなた様へとかけたのです」
「なにっ?!」
「あなたは、ネリーナ姫を殺すまで、死ねぬのです」
「わからぬ、どういうことだ?」
「今、リュナート様の体には怪我もなく、一見、健康のように見えますが、あの時、暗殺者の毒の刃で体と魂の命を奪われていたのです。
そして今の今まで、術者であり、殺しの相手であるネリーナ姫からの不死の魔法が途切れれば、あなたは即座に死に至る状態だったのです」
「そんな、まさか!俺はネリーナを殺す不死者ということか?!ならば、なぜ俺は知らなかったのだ?!」
「リュナート様にかけられた、相手を殺すまで不死となる魔法は、殺すように定められた相手が、自分の知り合いの場合、その者のことを忘れてしまうのです。情で手が止まることを防ぐ、よくできた魔族の呪いでございます」
「ネリーナは、どうした、ネリーナはどこにいるんだ!!!俺はネリーナを殺したのか?!」
「いいえ、まだ殺していません。その証拠に、あなた様は今も生きております」
「……」
「ネリーナ姫は、不死の魔法を維持するために、ずっとお近くにおられたのです。殺したいほど憎まれながら。もう、思い出せるのではないでしょうか」
「近く?どこだ?」
「リュナート様が、ネリーナ姫に贈った、城の北にある魔法の研究室です」
「ああ……北の塔……ネリーナが欲しがった。森と川が見える……」
「お急ぎください、今際の時を迎えております」
「ああ、まさか……そんな、ネリーナが魔女なのか……!」
すぐにリュナートは駆けだした。
呪いは、解けば終わるものではない。
還る。そう聞いたことがあったが。
ネリーナ。
その名だけが、頭の中で何度も反響していた。
なぜ気づかなかった。
なぜ思い出さなかった。
なんということだ!なんということをしたのだっ……
「くそ……!」
吐き出した声は、自分でも驚くほどかすれていた。
城の外れ、北の塔が見える。
あの忌々しい塔。
自分が魔女を閉じ込め、飢えさせ、追い詰めた場所。
ネリーナが欲しがった、見晴らしの良い塔。
一生自分のものにすると言って契約書まで書かされた。
何度も二人で夕陽を眺めた塔。
俺はそこで夕陽を見るネリーナを見ていたのだ。
忘れるはずもないことを忘れていたのか。
あの塔にネリーナがいる。
まだ、いるはずだ。
どうか、いてくれ、どうか……いてくれ……
扉を蹴破るように開け、階段を駆け上がる。
一段ごとに、心臓が潰れそうなほど打ち鳴らされた。
間に合え。
ただ、それだけを願っていた。
部屋の扉を押し開ける。
外と同じ真冬の夜の冷たい空気が、肌に触れた。
この部屋には火が無かった。
魔女は薪を手に入れることが出来なかったのだ。
俺がそうしたからだ。
そこに、ネリーナがいた。
痩せ細り、動くこともできず、ただ静かに横たわっている。
その姿は、かつての面影を残しながらも、あまりに弱々しかった。
「ネリーナ……!」
駆け寄り、その肩に触れる。
信じられないほどにその体は軽く、温もりさえも消えかけていた。
ゆっくりと、ネリーナの瞼が震える。
そして、わずかに目が開いた。
「……リュ……ナート……?」
かすれた声だった。
それでも、その名を呼ぶ声だった。
「俺だ……俺だ、ネリーナ……!」
喉が詰まり、うまく言葉にならない。
謝罪も、後悔も、すべてが胸の奥で絡まり、吐き出せなかった。
ただ、震える手で、その手を握ることしかできなかった。
「……よかった……」
ネリーナは、かすかに微笑んだ。
「間に……合ったのね……」
「違う……違うんだ……俺は――」
言わなければならないことが、いくつもあった。
謝らなければならない。
伝えなければならない。
だが、言葉が出なかった。
「……いいの……」
ネリーナは、ゆっくりと首を横に振る。
「あなたが……生きていてくれて……」
その言葉は、驚くほど穏やかだった。
責める気配は、どこにもなかった。
「……それだけで……よかったの……」
「やめろ……そんなこと言うな……」
リュナートは強く手を握った。
その温もりが、今にも消えてしまいそうで。
「俺は……お前を……憎み、閉じ込め、飢えさせた。……いっそ、死んでしまいたい」
「……リュナート……だめよ」
ネリーナの声が、さらに弱くなる。
「……あなたを……守れて……よかった……」
「……!」
その言葉が、胸を貫いた。
守られていた。
自分は。
ずっと。
気づきもせず。
「……ありがとう……また夕陽を」
最後の言葉だった。
その声が、空気に溶けるように消えていく。
同時に、握っていた手から、わずかな力が抜けた。
「……ネリーナ?」
返事はない。
呼吸も、もうなかった。
静かだった。
あまりにも、静かすぎた。
「……ネリーナ」
もう一度、名を呼ぶ。
だが、それに応える者はいなかった。
リュナートは、その場に崩れ落ちた。
握ったままの手を離すことができなかった。
遅かった。
すべてが。
あまりにも、遅すぎた。
塔の外では、風が吹いていた。
何も知らぬまま、ただ静かに、吹き抜けていった。
その後、リュナートは親族の子に跡目を譲るまで、東国の王と呼ばれるほどの威勢を振るい、魔族の侵入を阻み、人々を守り続けたという。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。
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