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あの冬の帰省から、数年が経ちました。

 私は今も生きています。東京で働き、日常を送り、表面上は何事もなかったように暮らしています。あの家を出たあと、体調を崩したこともありませんし、悪夢に苛まれることも減りました。

 だからこそ、はっきりと言えるのです。

 あの出来事は、終わっていません。むしろ、私の人生の中に「組み込まれた」のだと。

 あの後、私は民俗学の文献を読み漁りました。仕事とは無関係です。ただ、理解しなければならないという感覚に襲われていました。


 東北地方の山間部には、「祀られない神」「名を持たない神」に関する記録が点在しています。社を持たず、祭礼も行われず、ただ“そこに在る”存在。境界に置かれ、人の側にも、完全に自然の側にも属さないものです。

 それらはしばしば「荒ぶる神」と混同されますが、正確には異なります。荒ぶるかどうかは本質ではなく、人の扱いによって性質が定まる存在なのです。


 名を与え、物語に組み込めば神になる。忘れ、放置すれば災いになる。そして、座を設けて留めれば、「役割」を持つ。

 私の家の奥の部屋は、その「座」でした。


 像に顔がなかった理由も今なら分かります。顔とは、人格であり、名であり、物語です。それを与えないために、あえて人の形を借りながら、人にしなかった。

 父と母が沈黙を守ってきたのも当然でした。語ることは名を与えることに近い。外部の言葉に乗せればその瞬間に均衡が変わってしまう。

 あの祠も、同じ文脈にありました。集落の外れ、山と人里の境に置かれ、祭られず、しかし踏み固められていた場所。祈りではなく、確認のための場所です。


 ――まだ、そこにいるか。


 子どもの私は、それを壊しました。

 悪意はなかったのでしょう。子どもは境界を理解しません。触れてはいけないものほど、強く惹かれます。そして、神性というものは、人の善悪を判断基準にしません。


 触れた。覚えられた。それだけのことです。


 民俗学では、これを「しるしをつけられる」と表現することがあります。祝福でも呪いでもありません。関係が結ばれたというだけです。

 一度結ばれた関係は、死ぬまで解けません。逃げることも、断ち切ることもできません。距離を取ることはできますが、完全な遮断は不可能です。なぜなら、相手は人の時間を生きていないからです。

 私は今も、ふとした瞬間に、あの気配を感じます。疲れ切った夜、判断を誤りそうなとき、あるいは、人生の選択を迫られる場面で。

 声は聞こえません。姿も見えません。ただ、「見られている」という確信だけがあります。導きではありません。命令でもありません。

 問いです。


 ――どう座るのか。


 神性に触れた人間は選ばれたのではありません。罰せられたのでもありません。ただ、無関係ではいられなくなったのです。

 私が死ぬまでこの関係は続きます。向き合い、距離を測り、踏み込みすぎず、忘れすぎず、その均衡の中で生きていくしかありません。


 それが、この土地で長く続いてきた「人の側の役割」なのだと今は理解しています。


 奥の部屋の座が今どうなっているのか。像が、まだそこにあるのか。それとも、別の形で置き直されたのか。

 確かめていません。

 確かめる必要がないからです。

 私の中にすでに「座」があります。それを自覚してしまった以上、逃げ場はありません。

 神性とは、恐れるものではなく、理解しきれないまま、生涯付き合うものです。

 そしてそれは、選ばれた者の物語ではなく、 境界に触れてしまった、ただの人間の、その後の話なのです。

更新しました。

今回も、記録として残された内容をそのまま掲載しています。

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