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意識を失っていた時間はどれほどだったでしょうか。
目を開けたとき、部屋には朝の光が差し込み、外では雪を踏む音が微かに聞こえます。すべてが、あまりにも「いつもの朝」と同じでした。
それが、かえって不安でした。
頭痛はもう消えていました。しかし、胸の奥に重たいものが残っています。まるで、何かを抱え込まされたまま眠ってしまったような感覚です。
廊下に出ると、奥の部屋の襖は閉じられていました。昨夜、確かに聞いたはずの音も、開いたはずの隙間も、跡形もありません。
母は台所にいました。いつも通りの背中です。味噌汁の湯気が立ち上り、鍋の蓋が小さく鳴りました。
「……昨日の夜」
私がそう切り出すと、母の手が止まりました。
「何も、なかったでしょう」
振り返らないまま、母はそう言いました。その声には、問いを許さない硬さがありました。
私は何も言えなくなりました。なかった、と断言されることで、昨夜の出来事が私一人の内側に押し込められていくのを感じました。共有されない恐怖は、現実から切り離され、しかし完全には消えません。
昼前、父が私に声をかけました。
「午後、奥の部屋の掃除をする」
その言葉に、心臓が跳ねました。
「……今さら?」
「お前が帰ってきた時にやることになっている」
父の口調は淡々としていました。そこに疑問の余地はありませんでした。決まりごとを述べているだけ、という声音です。
私が帰ってきた時?どういう事だろう。
午後、私は父と母の後について、奥の部屋へと向かいました。襖の前に立つと、空気が、内側へ引き込まれるように沈んでいます。
父が襖を開けました。
中は想像していたよりも簡素でした。畳敷きの小さな四畳半で、中央に低い台が置かれ、その上に白布がかけられています。仏壇でも神棚でもありません。どちらにも似ていて、どちらとも違いました。
壁際には、古い注連縄と、色の抜けた紙垂。床の一部だけ、畳の色が違います。何度も何度も、同じ場所に人が座った痕跡でした。
母が白布をめくりました。
そこにあったのは、木彫りの像でした。
人の形をしています。腕と脚は簡略化され、胴体は異様に細い。そして、顔がありません。削り取られたのではなく、最初から「作られていない」ように見えました。
その像を見た瞬間、私は確信しました。
――これは、神だ。
それは恐ろしいからではありません。逆でした。あまりにも自然に、そこに「在る」ものだったからです。信仰や畏怖という言葉を超え、土地と同じ位相で存在している。そういうものです。
父が低い声で言いました。
「名はない」
母が続けます。
「名を与えると、人のものになるから」
私は唾を飲み込みました。
「……じゃあ、これは何なんだ」
二人は顔を見合わせました。
「ここに座るもの」
母の答えは、それだけでした。
この土地では、昔から「座」を設けてきたのだと、父は語りました。山と里の境、家と外の境、人とそれ以外の境。その曖昧な場所に、名を持たぬものを迎え入れ、留める。
祀るのではなく、留める。封じるのではなく、座らせる。
そうすることで、均衡が保たれてきたのだと。
「でも、壊れた」
母の声が、かすかに震えました。
「一度、座が空いた」
私の頭の中で、幼い日の記憶が繋がりました。像に触れた手の感触。耳元で流れ込んできた、言葉にならない声。
「……俺が?」
答えはありませんでした。しかし、沈黙が、すべてを肯定していました。
その夜、私は奥の部屋の前に座りました。一人でです。両親は何も言いませんでした。言えなかったのかもしれません。
襖の向こうに、気配がありました。像が、というよりも、部屋そのものが呼吸しているようでした。
私は自分が何を返すべきなのか、まだ分かりません。奪ったものが何だったのかも完全には思い出せていません。
ただ、分かっていることがあります。
この家に帰ってきたのは、偶然ではなかった。一週間という滞在期間も、休暇という名目も、すべては理由の後付けだった。
名を持たぬものは、座を必要としている。そして、座は――空いている。
障子の向こうで、畳がきしむ音がしました。それが像なのか、あるいは、別の何かなのか。 私はまだ確かめていません。確かめてしまえば、戻れない気がしているのです。
外では、雪が静かに降り続いていました。
この土地を覆い隠すように、そして、祝うように。
続きます。




