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奥の部屋の襖がわずかに開いているのを見たとき、その場から動けなくなりました。

 ほんの指一本分ほどの隙間です。風で開いたのかもしれません。古い家ではよくあることです。そう言い聞かせようとしても、心臓の鼓動が耳の奥で大きく鳴り、思考が追いつきません。そこから、空気が流れてきていました。冷たいだけではありません。湿り気を帯び、土の匂いが混じっています。冬の乾いた空気とは明らかに違いました。

 私はそれをこれ以上見たくなかった。何かがこちらを見ているのではないか、そんな確信めいた恐怖があったのです。背中に冷たい汗が伝い、喉がひくりと鳴りました。


 その夜は、ほとんど眠れませんでした。目を閉じると、襖の隙間が頭に浮かび、そこから何かが這い出してくる想像をしてしまいます。


 ――見られている。


 三日目の朝、私は耐えきれずに母に尋ねました。奥の部屋は何なのか、なぜ使われていないのか、と。

 母はしばらく黙り込み、それから朝食を作る手を止めました。視線を合わせず、低い声で言いました。


 「昔のことよ。あんたが知らなくていいこと」


 その言い方は私を安心させるためのものではなく、むしろ、触れさせないための壁のようでした。私はそれ以上踏み込めず、曖昧に頷くことしかできませんでした。

 昼過ぎ、私は外に出ました。家にいたくなかったのです。雪はやみ、空は鈍色に曇っていました。


 集落の外れに小さな祠があります。子どもの頃、何度も前を通りましたが立ち寄った記憶はありません。

 誰かに止められたわけでもないのに自然と避けていた場所です。なぜか、そこへ行かなければならない気がしました。


 祠は半ば雪に埋もれ、注連縄は古く、紙垂も色を失っていました。賽銭箱はなく、供え物もありません。ただ、祠の正面の雪は不自然なほど踏み固められていました。


 「久しぶりだな」


 背後から声をかけられ、私は飛び上がりました。

 振り返ると、近所に住む老人が立っていました。私が子どもの頃から、ほとんど姿が変わっていないように見えます。


 「帰ってきてたのか」


 私は頷きました。老人は祠に視線を向け、何かを確かめるように目を細めました。


 「あの家に泊まってるのか」

 「はい」


 その瞬間、老人の表情がわずかに硬くなりました。


 「……奥、見たか」


 胸が跳ねました。なぜ、それを知っているのか。問い返すより早く、老人は続けました。


 「あそこはな、昔から“家のもん”じゃないものを置く場所だ」


 それ以上、詳しくは語りませんでした。代わりに、こう付け加えました。


 「触ると、向こうが覚える。覚えられたら、離れん」


 家に戻る頃に再び頭痛が始まりました。横になっても治まらず、目を閉じると映像が浮かびました。

 暗い部屋。土の匂い。低い天井。そして、小さな自分。

 私は、あの奥の部屋にいました。幼い私は、机に置かれた何かを見下ろしていました。それは木彫りの像でした。人の形をしていますが、顔の部分だけがなく、のっぺらぼうになっています。


 周囲には紙が敷かれ、奇妙な文字のようなものが書かれていました。意味は分かりません。


 ――触ってはいけない。


 そう思ったはずなのに、私は手を伸ばしました。

 その瞬間、視界が反転しました。像がこちらを見下ろし、耳元で何かを囁いた気がしました。言葉ではありません。直接頭の奥に流れ込んできた感覚です。

 目を覚ますと、私はまた汗だくになっていました。夢だったはずなのに、手のひらがひりひりと痛みました。


 夜になるにつれ、家の中の音が増えていきました。廊下を歩く音、柱が鳴る音、どこかで水が滴る音。すべてが、意図を持って鳴っているように感じられました。

 奥の部屋から低い声が聞こえました。歌のようでもあり、祈りのようでもありました。言葉は分かりませんが、意味だけが伝わってきます。


 ――返せ。


 何を返せばいいのか、私には分かりません。ただ、その声が私自身の記憶と結びついていることだけは確かです。

 布団の中で、私は必死に自分を保とうとしました。理性がこれは疲労と恐怖が生んだ幻覚だと言います。しかし、別の部分が、もっと原始的なところで理解していました。

 あの家には、祀られてきたものがある。神なのか、悪霊なのか、その区別は、ここでは意味を持たない。大切なのは、それが「人の手によって縛られ」「役割を与えられてきた」存在だということです。


 そして私は、その均衡を壊した。


 襖がゆっくりと開く音がしました。


 私は目を閉じました。見てしまえば、もう戻れない気がしたのです。

 しかし、閉じた瞼の裏にさえ、何かが立っているのが分かりました。視線が、確かに、そこにありました。

 呼吸が乱れ、頭の中で同じ言葉が繰り返されました。


 ――思い出せ。 

 ――思い出せ。


 私が何をしたのか。 何を、奪ったのか。

 その答えが、もうすぐ、全て思い出されてしまう。そう確信したところで、意識が暗転しました。

 朝が来たのかどうか、私には分かりませんでした。

不安の正体が、必ずしも「外側」にあるとは限りません。


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