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目が覚めたとき、天井がいつもより低く感じました。

 布団の中は温かく、体はちゃんとありました。手も足も動かそうと思えば動きました。

 それなのに、起き上がろうとすると胸の奥がざわつきました。

 嫌な感じではないのです。

 私はしばらく布団の中でじっとしていました。


 家の中の音が聞こえました。台所の方で水の音がします。きっと母でしょう。誰かが歩く足音もします。祖父母かもしれません。

 いつもの音でした。


 それを聞いているうちに、胸のざわつきは少しずつ弱くなっていきました。

 私はゆっくりと体を起こしました。

 部屋の中はいつもと同じ。壁も、家具も、見慣れたものばかりです。

 けれど、一つだけ違うことがありました。


 部屋の中に、自分の匂いしかしなかったのです。


 いつもなら、布団の匂いや、木の匂いや、外から入ってくる土の匂いがあるはずなのです。


 少しだけ不安になりました。何かを忘れている気がしました。

 けれど、それが何なのかは分かりませんでした。

 分からないまま、私は布団を畳み部屋を出ました。

 居間に行くと母が台所に立っていました。


 母は、私を見ると、少しだけ動きを止めました。

 ほんの一瞬。すぐにいつもと同じように動き始めました。


 「起きたの」


 そう言われました。

 声の調子も、表情も、いつもと同じです。目だけ違う。母の目は、私を見ていません。 私の後ろを、見ている。私は振り返りましたが何もありません。

 私は何か言おうとしましたが、何を言えばいいのか分かりません。言葉を発しようとすると、頭の中が白くなりました。


 「……」


 何も言えませんでした。

 母はそれ以上何も聞きませんでした。

 朝ごはんを食べる。味はよく分かりませんでした。いつもと同じはずなのに。


 父はすでに仕事に行った後でした。祖父母は多分畑作業でしょう。

 食べ終わると、母は私に着替えを持ってきました。


 「今日は、外に行かないでね」

 

 理由は言われませんでした。

 私は、うなずきました。外に行きたいとも思いませんでした。

 私は家の中で過ごしました。いつもと同じ。

 けれど、廊下の奥だけは見ないようにしていました。

 

 昼頃、祖父が帰ってきました。

 祖父は私を見ると少しだけ立ち止まりました。

 何かを言いかけたように見えましたが、結局、何も言いませんでした。

 その代わり、私の頭に手を置きました。

 とても重い手でした。

 温かいとも、冷たいとも感じませんでした。

 ただ、そこにある、という感触だけがありました。


 私は祖父を見上げました。

 祖父は私を見ていませんでした。

 家の奥の方を見ていました。

 その視線の先を追おうとしましたが、途中でやめました。

 見てはいけない気がしたからです。


 午後になるといつの間にか眠ってしまいました。

 目を覚ますと夕方、家の中が少し暗くなっていました。

 起き上がろうとしたとき、胸の奥に、またあの感じがありました。

 重さのような、冷たさのような、でも形のないものです。


 私は、それをどうすればいいのか分かりませんでした。

 分からないまま、立ち上がります。

 そのとき、ふと、何かを思い出しかけました。


 暗い部屋。何かの形。音のない音。

 頭の中に浮かびかけた瞬間、それは、すっと遠ざかりました。


 手を伸ばしても届きませんでした。

 私は思い出そうとするのをやめました。やめるのが自然だと思ったからです。

 夕飯のときも誰も何も言いませんでした。

 その日は早く寝かされました。


 布団に入ると、母が隣に座りました。


 母は、何も言いませんでした。

 ただ、そこにいました。

 私は、母の方を見ました。

 母は、私を見ていませんでした。

 天井の、少しずれた場所を見ていました。

 私は、目を閉じました。


 眠りに落ちる前、胸の奥で何かがゆっくりと動くのを感じました。

 何かが離れていく、遠くなるというより、奥にしまわれていく感じでした。


 次の日、昨日のことがはっきりしなくなっていました。

 何があったのか分からないのです。

 分からないことを不思議だとも思いません。

 家の奥のことも思い出せなくなっていました。

 ただ、「行かない」という約束だけが、残っていました。

 なぜ行かないのかは分かりませんでした。

 理由がないまま、それは守られていました。


 それから、私は大きくなりました。

 家を出て、別の場所で暮らすようになりました。あの頃のことはほとんど覚えていません。

 けれど、冬になる前、空気が変わる頃になると、理由もなく胸の奥が重くなることがあります。

 そのとき、私は、何かを思い出しそうになります。

 思い出さないまま、そこに立ち止まります。

 それが、私にできる、唯一のことだから。

ここまでが、幼年期の記録です。

次話から、語り手と時代が変わります。

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