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Aの記録を読み返しながら、私は一度も「異常だ」と感じなかった。それが何よりも異常だった。恐怖も、哀れみも、怒りも、そこにはない。淡々とした生活の描写と、動かない時間の感触が、文字として並んでいるだけだ。それは彼が壊れてしまった記録ではない。正しく配置された結果の記録だった。
私はこの話をまとめながら、自分がずっと避けてきた問いにようやく向き合わざるを得なくなっていた。 なぜ私はこれを書き続けたのか。
大学時代の同期が少しおかしくなったから。怪談として面白そうだったから。都市伝説系のサイトのネタになりそうだったから。
どれも嘘ではない。だがどれも核心ではない。
私は、Aが「例外」であることに耐えられなかったのだと思う。理解できないまま放置される存在が、この社会に、しかも自分の身近にあることがどうしても許容できなかった。だから私は民俗学を持ち出し、建築史を参照し、心理学的な枠組みを当てはめ、「座」という言葉で包み込もうとした。
だがその行為自体がすでに構造の内部だった。
座は、触れた者だけを縛るのではない。知った者、語った者、記録した者もまた、その影響圏に入る。
私はAを救おうとしたわけではない。救われない存在として彼を固定しようとした。それが第三者であるという立場の最も残酷な形なのだと、今は分かる。
N集落は今も存在している。郵便局も、商店も、変わらず営業している。奥の部屋のある家も、取り壊されることなく、そこにある。
集落は何も変えない。変える必要がないからだ。
座は壊されるものではない。祀られるものでもない。必要とされる限り、存在し続ける構造だ。
Aは、生きている。これからも生き続けるだろう。逃げられないというのは呪いではなく、選択肢が消えるということではない。選択そのものが意味を持たなくなる。
私はこれ以上Aの未来を書かない。なぜなら、これ以上記述を重ねれば、私は完全に座の外側を失ってしまうから。第三者であり続けるためには、どこかで筆を置かなければならない。
この記録は、解決ではなく理解でもない、ただの配置の記述だ。
私はこれを公開する。人気のない、誰も読まないかもしれないウェブサイトに。それが、私に許された最後の距離の取り方だ。
これ以上、踏み込まないために。これ以上、触れてしまわないために。
――そして、もしもこの記録を読んだ誰かが、古い家の、使われていない奥の部屋に、理由の分からない違和感を覚えたとしたら。
どうか、座らないでほしい。
それだけを、最後に書き残しておく。
ありがとうございました。




