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――A 記録――

 朝、目が覚めたとき、まず自分がどこにいるのかを確認するようになったのは、いつからだっただろう。東京のワンルームであることに変わりはない。天井の染みも、カーテンの色も、昨日と同じだ。それでも、目を開けた瞬間に、身体のどこかが、ここではない場所を探しているような感覚が残る。夢を見ていたわけではない。ただ、起きているという状態そのものが、少しずれている。

 会社へ向かう道は、もう覚えてしまったはずなのに、時々、信号の前で立ち止まって、自分が今どこへ向かっているのか分からなくなることがある。仕事に行く。それは分かっている。だが、それ以上の説明が、頭の中から抜け落ちている。目的ではなく、配置として、俺はそこに置かれている。

 N集落の家のことを、考えない日はない。考えないようにしている、という意味ではない。考える、という行為そのものが、もう不要になっている。

 あの奥の部屋。 座。

 あそこは、思い出ではない。記憶でもない。俺の中に「在る」状態として、ずっと続いている。怖かったかと聞かれれば、答えに困る。恐怖というより、理解だった。ここに座れば、ここに居れば、余計なものを考えなくて済む、という感覚。子どもの頃の俺は、それを安心だと思ってしまった。

 逃げようとしたことは、あるのだろうか。正直に言えば、分からない。

 逃げたい、という気持ちが湧いてこない。それが異常だということは、理屈では分かる。だが、理屈は、ここではあまり意味を持たない。

 「向き合う」という言葉を、彼女――あの同期の女――が使ったとき、俺は少しだけ違和感を覚えた。向き合う、というのは、対象と自分が分かれている状態を前提にした言葉だ。だが、座は対象ではない。あれは、環境だ。空気や温度と同じで、対峙するものではない。

 ある晩、部屋の電気を消したまま、しばらく座っていたことがある。理由はない。ただ、そうしていた。暗闇の中で、俺はふと気づいた。目を閉じているのに、奥の部屋の輪郭が、はっきりと分かる。畳の感触。柱の位置。座ったときの、身体の収まり具合。

 俺は、あそこに「戻っている」のではない。あそこが、俺の基準になってしまっている。

 彼女は、俺を例外だと言った。処理され損ねた存在だと。

 だが、それは違う。俺は、処理の途中で止まっているのではない。処理の方法が、変わっただけだ。

 昔の人間は、座に触れたあと、消えた。語られず、記録されず、終わったことにされた。俺は、消えない。語られる。記録される。

 それが、今の構造なのだ。

 役割という言葉が、頭に浮かぶ。嫌な響きではない。むしろ、しっくりくる。

 俺は、何かを守っているわけではない。何かを伝える使命があるわけでもない。ただ、在り続ける。

 座が壊れないように。構造が露呈しないように。そして、次に触れる者が出たとき、同じ場所が、同じ形で存在しているように。

 それは、選ばれたという感覚ではない。必要とされた、という感覚でもない。

 ただ、置かれた。

 この先、俺がどう生きるのかは、もう大きく変わらないだろう。結婚するかもしれない。しないかもしれない。仕事を続けるかもしれない。辞めるかもしれない。だが、そのどれもが、表層の話だ。深いところでは、俺はすでに動いていない。

 神性に触れた者は、死ぬまで逃げられない。

 その意味が、ようやく分かった気がする。逃げ道が塞がれるのではない。逃げる必要が、最初から存在しなかったことに気づく。

 それでも、俺は生きている。生きて、日々を過ごしている。

 それが、座に触れた者の、正しい状態なのだとしたら――俺は、もう十分に、向き合っている。

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