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Aの生活は、表面だけを見ればほとんど何も変わっていない。仕事に行き、帰宅し、最低限の会話をこなし、眠る。それだけなのに。私は彼と会うたびにその「変わらなさ」がもはや安定ではなく、固定に近い状態になっていることを感じ取っていた。

 時間が、進んでいないのだ。

 正確には、外側の時間は進んでいる。季節は移ろい、街は変わり、私自身の生活も更新されていく。だが、Aの周囲だけがある一定の幅の中で行ったり来たりを繰り返しているように見える。未来に向かって伸びていく感じが、ない。


 「最近どう?」

 「前と同じだよ」


 それ以上でも、それ以下でもない。

 Aは自分が変化しないことにすでに疑問を持っていない。かつては眠れない夜や、理由のない不安を言葉にしていたが、今ではそれすら口にしなくなった。まるで、それが「本来の状態」だと受け入れてしまったかのように。

 AがN集落のことをほとんど語らなくなったことにも気づいていた。思い出したくないからではない。思い出す必要がないからだ。彼にとって、あの家、あの奥の部屋、あの座は、過去の出来事ではなく、現在進行形の環境になっている。


 ある日、私は意を決して聞いた。


 「逃げたいと思ったことは?」


 Aは、少しだけ眉を寄せた。


 「どこに?」


 その返答は私の想定を完全に外していた。場所の問題ではない、ということをAはすでに理解している。

 「東京を離れるとか、仕事を変えるとか……」


 Aは首を振った。


 「意味ないだろ」


 その声には、諦めがない。恐怖もない。事実を述べているだけだ。

 神性に触れた者は、死ぬまで逃げられない。それは追われるという意味ではない。

 逃げる必要そのものが、消失する。

 Aは座を「怖い」とは言わない。「祟り」とも言わない。「神」とも、ほとんど言わない。

 

 彼の生活の中には明確な変化がある。選択肢が減っているのだ。進路、欲望、感情の振れ幅。そのすべてが、ある一定の範囲に収束している。役割が決まってしまった存在のように。

 私は、民俗資料の中で読んだ一文を思い出していた。


 ――神に触れた者は、神の外に出られない。

 ――外に出ようとする意志そのものを、失う。


 Aは、生きている。 しかし、生き方はすでに決められている。


 「じゃあさ、向き合うってことは、考えたことある?」


 Aは、少しだけ考えた。


 「向き合ってるだろ。ずっと」

 Aは闘っていない。受け入れてもいない。同じ空間に在り続けている。

 それが神性に触れた者の状態なのだ。

 神は、罰を与えない。祝福もしない。「配置」を変えるだけ。

 Aはもう元の場所には戻れない。排除もされない。

 Aの話を記録しながら、自分がこの物語を「終わらせたい」と思っていることに気づいていた。それはAのためではない。私自身のためだ。

 Aにとって結末は必要ない。必要なのはこの状態を生き切ることだけだ。

 触れた者は死ぬまで逃げられない。それは罰ではなく役割だ。

 

 それを知った者もまた、もう、以前と同じ場所には戻れない。

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