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私は自分が歩いているのか、引かれているのか分かりませんでした。足は前に出ていましたが、力を入れた感覚がなかったから。


 床の色が変わった先。襖だけがありました。古くて、少し歪んでいます。

 ところどころに薄い染みがありました。


 私は、その前に立ちました。

 不思議なことに怖くはありませんでした。胸が苦しくなることも、逃げたいと思うこともありませんでした。

 ただ、早く開けなければいけない気がしました。

 なぜそう思ったのかは分かりません。遅れるといけない、という感覚だけがありました。

 私は襖に手を伸ばしました。指先が触れた瞬間、冷たいと思いました。どう表現すれば良いでしょうか。紙の冷たさではなく、もっと奥のものに触れたような冷たさでした。

 そのまま力を入れずに引きました。襖は、音も立てずに開きました。

 部屋の中は暗いはずでした。けれど真っ暗ではありませんでした。

 暗さが均一ではなかったのです。薄く、ぼんやりと、部屋の形が分かりました。

 広くはありませんでした。四畳半ほどの和室です。なぜか窓はありませんでした。天井から紐のようなものが垂れ下がっていましたが、その先に何があるのかは分かりませんでした。


 私は一歩、部屋の中に入りました。

 足の裏に、畳の感触が伝わりました。けれど、それは、他の部屋の畳とは違っていました。


 柔らかくもなく硬くもなく、踏んだ感じが残らない。足を上げるとそこに立っていた感覚まで消えてしまうような、不思議な感触でした。


 部屋の中央に、何かがありました。


 最初は、それが何なのか分かりませんでした。暗さの中に、少しだけ形がある、という程度でした。

 近づくにつれてそれが人の形をしていることが分かりました。


 立ってはいませんでした。座ってもいませんでした。

 低い台の上に、置かれていました。


 私は、息を止めていました。止めたつもりはありませんでしたが、気づいたときには、胸が苦しくなっていました。

 何かの像のようでした。

 木でできているように見えました。色は黒く、ところどころが擦れて光っていました。

 体はありました。

 腕も、脚も、ありました。


 けれど、顔がありませんでした。


 削らているのではなく、もともと無いように見えます。

 私は本来顔がある部分から目を離せませんでした。

 何もないのに、そこに何かがあるような気がしました。見てはいけないものを見ている、という感じはありませんでした。

 見ている、という事実だけがありました。

 部屋の中には、自分の呼吸の音しかありませんでした。

 像の前に立ったとき、胸の奥が強くざわつきました。

 怖い、という言葉は浮かびませんでした。代わりに、「遅れた」という言葉が浮かびました。

 何に対して遅れたのかは分かりません。


 私は、手を伸ばしました。

 触れるつもりはありませんでした。ただ、どれくらい近いのかを確かめようとしただけでした。

 指先が像に触れました。

 その瞬間、部屋の空気が変わりました。

 重くなったというより、押されるような感じでした。前からでも後ろからでもなく、四方から、同じ強さで。


 私は息を吸おうとするのに胸が動きません。

 苦しい、と思いました。初めて怖いと思いました。

 もう一度像を見ました。


 木の体。削られた腕。脚の付け根。

 そして、顔がない場所。


 見た瞬間、頭の中が真っ白になりました。

 音がしました。耳で聞いた音ではありませんでした。頭の中で、何かが鳴ったような感覚でした。

 言葉ではありませんでした。意味もありませんでした。

 ただ、「来た」という感じだけがありました。

 私は、声を出そうとしました。声が出なかったのか、出したのか、分かりません。 自分の喉が動いた感覚だけがありました。


 そのとき、後ろで音がしました。

 襖が、閉まる音でした。

 私は振り返りました。

 襖は、確かに閉まっていました。

 誰もいませんでした。

 私は、急に体が重くなりました。

 足が動きません。腕も上がりません。


 床に座り込んだのか、倒れたのかも分かりません。気づいたときには畳が目の前にありました。

 畳の目の隙間が、やけに大きく見えました。

 息ができませんでした。苦しい、という感覚だけが強くなっていきました。


 そのとき、何かが近づいてきた気がしました。

 見えたわけではありません。音がしたわけでもありません。

 ただ、距離がなくなった、という感じでした。

 私は、目を閉じました。閉じたつもりでした。実際に閉じたのかは分かりません。

 暗さが、さらに深くなりました。


 それから先のことは、よく覚えていません。

 断片的に、いくつかの感覚だけが残っています。

 誰かの手が、背中に触れたこと。とても冷たかったこと。

 耳元で、何かが動いたような気配。音はなかったこと。

 胸の苦しさが、急に消えたこと。


 次に気づいたとき、私は床に寝ていました。

 目を開けると、天井が見えました。

 見慣れた天井ではありませんでした。木目が、知らない形をしていました。

 体が動きませんでした。けれどさっきほど苦しくはありませんでした。

 私は、何度か瞬きをしました。すると視界の端に人の足が見えました。


 大人の足でした。

 誰なのかは分かりませんでした。

 声をかけられた気がします。けれど、何を言われたのかは覚えていません。


 次に気づいたとき、私は自分の布団に寝ていました。

 外は、暗くなっていました。

 胸の奥に何かが残っていました。

 重さのような、冷たさのような、でも、はっきりしないもの。

 それが何なのか私は考えませんでした。

 考えようとすると眠くなったからです。


 私は、そのまま眠りました。

幼い頃の記憶は、必ずしも整理された形では残りません。

この話も、そうした「歪み」を含んだまま。

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