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以下に記すのは、私がN集落およびその周辺地域に関して収集した、断片的な証言、聞き書き、郷土資料の余白への書き込み、そして私自身がそれらを読み解く過程で付した注釈であるが、あらかじめ断っておくならば、これはいわゆる一次資料集ではなく、むしろ「整理されてしまったものの記録」であり、どこまでが他者の言葉で、どこからが私の解釈なのか、その境界は、すでに曖昧になっている。
証言一
(N集落・70代男性・聞き書き)
「“座”いうてもな、別に何かを置いとく場所やないんよ。座るもんがあるわけでもない。家の奥にあって、使わん部屋や。昔から、そういうもんやって、わしらも子どもの頃は入るな言われとったけど、なんでかは誰も言わんかった。言わんいうより、言えんかったんかもしれんな」
【注】この証言の特徴は、「座」が物理的な対象ではないことを、証言者自身が強調している点にある。 置く場所ではない。座るものもない。それでも「座」と呼ばれる。
名称が先にあり、用途が後から失われたかのような印象を受ける。
証言二
(郷土誌・昭和四十年代編纂/編集後記より抜粋)
「各家屋の間取りにおいて、最奥部に記載されない空間が存在する例が散見されるが、これは調査不能というより、調査対象外とされた可能性が高い。住民の多くが『書かなくてよい』『そこは部屋ではない』と回答したためである」
【注】調査不能ではなく、調査対象外。この一文を読んだとき、私は資料室で見た、説明されない空白を思い出した。
存在するが、数えない。あるが、部屋ではない。「座」は、常に定義から外されることで存在している。
証言三
(N集落出身・女性・40代・電話インタビュー)
「子どもの頃、あの家に遊びに行った時、奥の部屋の前で、よく大人が立ち止まってたのを覚えてます。入るわけでもなく、拝むわけでもなく、ただ、立って、少し黙ってから戻るんです。あれ、何してたんだろうって、今でも思います」
【注】行為が不完全であること。入らない、拝まない、使わない。それでも「立ち止まる」。
私はここで、「座」を装置として考え始めた。人が、特定の振る舞いをしてしまう場所。
証言四
(Aの発言・私のメモより)
「俺さ、あの部屋に入った時、自分が何をしに来たのか分からなくなったんだよ。気づいたら、そこに“居ていい”気がしてた。怖いとかじゃなくて、落ち着いてた。それが、後から一気にきた」
【注】この証言を、私は何度も読み返した。
「居ていい気がした」という感覚。それは、恐怖よりも危険だ。座は、人を拒まない。むしろ、正しく受け入れる。
証言五
(集落外縁部・古老の談話/書き起こし)
「昔はな、家には“人の場所”と“そうでない場所”があった。今みたいに全部が生活のための部屋やなかった。座は、人が住む場所やない。けど、家の中には要る。無いと、落ち着かん」
【注】要るが、住まない。使わないが、無いと困る。この矛盾が、座の核心に近い。
ここまで証言を並べて、私はようやく、自分が何を恐れているのかを、言葉にできる気がした。
「座」は、何かを祀る場所でも、閉じ込める場所でもない。忌避されながら、必要とされている。
それは、人が人であるために切り離したものを、置いておくための空間なのではないか。
感情、衝動、役割、あるいは、誰のものでもない視線。それらを、生活の中心から少しだけ外した位置に、しかし完全には排除せず、家という構造の中に組み込む。
座とは、忘却のための部屋ではない。
忘れないために、触れない場所だ。
だからこそ、そこに近づいた者は安心し、そして、後から壊れる。
私は、この証言集をまとめながら強烈な既視感に襲われていた。
N集落だけの話ではない。これは、どこにでもある。
名前を失い、用途を失い、それでも残っている場所。
私たちは、それを見ないふりをして生活しているだけだ。
第三者であるはずの私が、ここまで理解してしまったという事実が、何よりも恐ろしかった。
なぜなら、理解とは、立ち位置を変える行為だからだ。
私はまだ、座に入っていない。だが、座がどこにあるのかをはっきりと知ってしまった。
そして、それは、物語の終わりを、静かに指し示していた。
距離を保とうとする行為そのものが、関与である場合もあります。




