表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
17/25

17

月曜日の朝、私はホテルの部屋で目を覚ましたが、目覚めたという感覚がなかった。正確には眠りから浮上したはずなのに、意識のどこかがまだ昨夜の暗がりに引っかかったまま、カーテンの隙間から射し込む光を見てもそれが朝の光なのか、ただの明るさなのか、すぐには判断できなかった。

 時計を見ると、七時を少し回っている。夢は見ていない。少なくとも覚えてはいない。

 それでも、胸の奥に、微妙な圧迫感が残っていた。 

 私は顔を洗い、歯を磨き、身支度を整えた。その動作一つひとつを、意識的に行った。気を抜くとどこかに引きずられる気がした。

 この日はN集落(仮)そのものに深入りするつもりはなかった。集落の中に入る前にまず周辺の資料を調べる。それが第三者としての最低限の距離の取り方だと思っていた。

 駅前に戻り小さな市立図書館へ向かった。建物は古く利用者も少ない。

 郷土資料の棚は奥に追いやられている。私はそこで時間を忘れてページをめくった。

 N集落(仮)という名前は、ほとんど出てこない。正確には、名前としては存在するが、説明がない。

 人口推移。耕作面積。簡単な沿革。

 どれも事務的な情報だけだ。

 だが私は「書かれていないこと」を探していた。

 古い民俗調査報告書。昭和中期にまとめられた、簡素な冊子。

 そこに、ほんの一行だけ、引っかかる記述があった。


 ——座に関する習俗については、当時すでに詳細不明。


 座。


 その文字を見た瞬間、指先が、紙の上で止まった。

 私の知っている「座」はいくつかある。

 座敷。講座。星座。

 あるいは、村の寄り合いの座。歌舞伎の座元。

 この文脈の「座」は、そのどれでもない。

 私は別の資料を探した。座という語が使われている箇所を、片っ端から拾う。


 古い年中行事の記録。祭礼の配置図。 家屋の間取りに関する簡単な図解。

 共通しているのは、「動かないもの」「決まっている位置」というニュアンスだ。

 人が座る場所、ではない。人が「座らされる」場所。

 あるいは、何かが座るために空けられている場所。


 その考えに至った瞬間、私は、強烈な嫌悪感を覚えた。

 身体の奥が、冷たくなる。

 私は資料室の椅子から立ち上がり、深呼吸をした。

 考えすぎだ、と自分に言い聞かせる。これは、推測に過ぎない。Aの話と、資料の断片を、無理に繋げているだけだ。

 それでも、私の中で何かが、確実に噛み合い始めていた。


 午後、私は再びN集落の近くまで行った。

 昨日までとは違う。覚悟、というほど大げさなものではない。

 郵便局の前で、私は一度、立ち止まった。

 扉のガラスに映る自分の顔が少しこわばっている。

 中に入ると、局員は私を見て、わずかに眉を動かした。


 「また来られたんですね」

 「ええ。少しだけ」

 

 私は、資料の話はしなかった。代わりに、単刀直入に聞いた。


 「この集落で、『座』という言葉を聞いたことはありますか」

 

 局員の動きが、止まった。

 ほんの一瞬。だが、確かに。



 「……誰から聞きましたか」

 「資料です」

 

 私は嘘をついた。

 局員はしばらく黙っていたが、やがて小さく首を振った。


 「詳しいことは、分かりません」


 それは、昨日までと同じ返答だった。

 違う点が一つある。彼は、否定しなかった。

 郵便局を出たとき、私は、はっきりと恐怖を自覚した。

 理由は単純だった。

 ここまで来て、誰も「そんなものはない」と言わない。

 存在を肯定しない。否定もしない。それは、曖昧さではない。

 触れてはいけないから、輪郭を与えないという態度だ。


 私は集落の中を歩いた。

 昨日よりも一歩だけ深く。

 道はぬかるんでいる。靴底に土が絡みつく。

 その感触が異様に生々しい。

 そして気づいた。

 自分の足音が、やけに大きい。

 周囲の音が、遠い。

 視線を感じる。

 だが誰もいない。


 この感覚は、Aが言っていたものと、同じだ。

 私は、ここで初めて理解した。

 Aが恐れていたのは、何かに襲われることではない。

 自分の存在が、正しい位置からずらされることだ。

 私は第三者だ。当事者ではない。

 それでも、この瞬間、私は、第三者であることが、絶対ではないと知ってしまった。

 恐怖は、強烈だった。身体が震える。思考が、散らばる。しかし、逃げ場がない。

 なぜなら、この恐怖は、外から来たものではない。

 私自身が、理解してしまったことによって、生まれたものだからだ。

 その日の夜、ホテルに戻っても、私は眠れなかった。

 目を閉じると、「座」という文字が、頭の中に浮かぶ。

 誰がそこに座るのか。なぜ空けておく必要があるのか。

 考察は、まだ、考察に過ぎない。恐怖だけは、確かだった。

 これは忘れられない。

 Aが抱えているものの、ごく一端に、触れてしまった。

 その事実が、私の中で、重く沈んでいた。

名前が与えられたからといって、理解できたとは限りません。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ