16.
Aから話を聞いてから二か月が経ったが私はまだ何も調べていない。
出来事として完結していない。今も続いているという感触があった。勢いで「調べる対象」にしてしまうと、話そのものを壊してしまう気がした。
私は待っていたのだと思う。自分の中である程度、温度が下がるのを。
それでも、二か月経ってもAは変わらなかった。
顔色が悪いわけではない。仕事を休むわけでもない。ただどこかで、常に一拍、遅れている。
話しかけると返事は来る。だがその視線は言葉の少し奥にある何かを見ている。
その状態を「疲れている」とは呼べなかった。
三月の終わり、私は有給休暇を取った。
会社に理由を説明する気はなかったし、説明できる言葉もなかった。今なら行ける気がした。
土曜日の朝、私は最寄り駅に降り立った。
都市部と大差のない、地方の駅。改札を出ると、小さなロータリーがありタクシーが二台停まっている。
季節は冬と春の境目だった。雪はほとんど残っていないが空気は冷たい。コートの襟元から入り込む風に、まだ棘がある。
私は、タクシーに乗り込みN集落(仮)という名前を告げた。
運転手はミラー越しに私を見た。
「……ああ、Nの方ですね」
それだけだった。
車は駅前の小さな町を抜け、すぐに山道へ入った。舗装はされているが、道の端が崩れかけている。
雪解け水が、あちこちで溜まり、濁った水面を作っていた。
「この時期は、あまり人、来ないんですよ」
運転手が、前を向いたまま言った。
「観光地でもないですし」
「ええ」
それ以上、会話は続かなかった。
四十分ほど走り車は集落の入口で止まった。
N集落(仮)。
看板はあるが色あせている。文字の輪郭が少し滲んで見えた。
N集落は思っていたよりも小さかった。
家は十数軒ほど。その多くが古く、使われているのかどうか分からない。
コンビニはない。自販機もない。あるのは郵便局と小さな商店が一軒だけ。
まず商店に入った。
引き戸を開けると店内は静まり返っている。ラジオもテレビもついていない。
棚には最低限の食料品と日用品。客が頻繁に来る店ではない。
レジの奥に六十代くらいの女性が立っていた。
彼女は私を見ると、一瞬、動きを止めた。
「いらっしゃい」
声は、低く、抑えられている。
「少し、お話を聞きたくて」
私は用意していた説明をした。大学の同期がこの集落の出身であること。子どもの頃の話を聞いたこと。
女性は私の顔をじっと見た。
その視線には、好奇心も、警戒も、どちらも含まれていた。
「昔の話はね」
彼女は、ゆっくりと言った。
「みんな、あまり覚えていないんですよ」
「覚えていない、というのは」
「覚えないようにしてる、のかもしれません」
その言い方が、妙に正確だった。
私はそれ以上踏み込まなかった。
郵便局でも似たような反応だった。
局員は業務的な笑顔で対応しながら、「昔」「奥」「子ども」という言葉が出ると急に声の調子が変わる。
「特別なことは、何もないですよ」
そう言いながら、視線が無意識に局舎の奥へ向かう。
その動きを見たとき、私はAの話を思い出した。
彼もまた、話しながら無意識に視線を逸らしていた。
日曜日、私は再び集落の入口まで来た。
前日よりも気温は少し上がっている。雪解け水の流れがはっきりと見える。
この日は集落の外れまで歩いた。
舗装路の終わり。
音が、少ない。鳥の声はする。風の音もある。
それなのに、何かが、欠けている。
私は、その「欠け」を言葉にできなかった。
ここは、踏み込まないことで、成立している場所だ。
Aが触れてしまったもの。それは、何かを見た、というよりも、越えてはいけない線を、越えてしまった感覚なのではないか。
私はまだ越えていない。だが線の位置は見えてしまった。
それだけで、胸の奥がじわじわと冷えていくのを感じていた。
証言は、事実そのものではなく、「そう語られた」という事実です。




