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Aの話を聞いたあと私は妙に落ち着かなかった。
不安、というよりも手持ち無沙汰に近い。やるべきことがある気がするのに、それが何なのか分からない、あの感じだ。仕事中も、Aの言葉が何度か頭をよぎった。
——触れられる距離。 ——思い出しそうになる。 ——奥が、違う。
どれも都市伝説としてはありふれている。にもかかわらず、私はそれを「よくある話」として処理できずにいた。
理由は単純だった。
Aが、話を盛っていなかったからだ。
怖がらせようともしない。意味づけもしない。ただ、起きたことをそのまま言葉にしようとして、途中で詰まる。
そういう語りは、作れない。
その日の夜、私は自分のウェブサイトの管理画面を開いた。
アクセス数は相変わらずだった。一日、十にも満たない。
都市伝説系と言っても、派手な話は扱っていない。地名に紐づいた小さな噂、掲示板の片隅に書かれた体験談、古い郷土誌の脚注。
人気が出る要素は何一つなかった。
私は、検索窓に、適当な言葉を打ち込んだ。
「集落 奥 入らない」
当然、まともな結果は出ない。
次に少しだけ具体性を持たせた。
「家 奥の間 禁忌」
古民家保存会のブログ、民俗学の入門記事、ホラーまとめサイト。どれも知っている話ばかりだった。それでも私は読み続けた。
内容そのものより、言葉の使われ方を見るためだ。
「奥」「しまってある」「使われていない」 「子どもが近づく」「理由は教えない」
表現は違っても構造は似ている。
そして多くの場合、語り手はこう締めくくる。
——結局、何だったのかは分からない。
私はそこで画面を閉じた。Aの話はそれらと似ている。だが決定的に違う点がある。
Aは、自分が関係者であることをまだ受け入れていない。
翌日、私はAに連絡を取った。
長文は避け、短く。
「ちょっと調べてみた。今度、また話せる?」
返事はすぐに来た。
「助かる。正直、一人で考えるのがしんどい」
その文面を見て、私は少しだけ安心した。
逃げていない。 まだ向き合う余力がある。
数日後、私たちは再び会った。今度は私の部屋だった。狭いワンルームで、壁一面が本棚だ。 民俗学の専門書はない。せいぜい、一般書と文庫、それにコピー用紙の束。
「なんか、研究室みたいだな」
Aが苦笑した。
「金ない趣味人の部屋だよ」
私はそう言って、床に座るよう促した。
「今日は、私が話す番」
Aはうなずいた。
「まず前提として。君の話に、名前は付けない」
「名前?」
「怪異とか、神様とか、そういうの」
Aは、少し考えてから言った。
「それは、ありがたい」
私は続けた。
「調べた限り、君の実家みたいな構造の家、全国にある」
「構造?」
「物理的な間取りだけじゃない。“使われない場所”が、意図的に残されてる家」
私はコピー用紙を数枚、床に広げた。
地名、年代、簡単な概要。どれも曖昧な情報だ。
「共通点は三つ」
「一つ。理由を説明しない」
「二つ。子どもが関与する」
「三つ。記憶が曖昧になる」
Aは、紙をじっと見ていた。
「……俺の話と、似てる?」
「似てる。でも、同じじゃない」
私は、はっきり言った。
「君の場合、“触れそうになってる”」
その言葉に、Aの肩が、わずかに強張った。
「多くの話は事後談だ。大人になってから思い出す。でも君は、今、進行形だ」
私は、一度、言葉を切った。
「だから、これはまだ、記録の途中」
Aは、しばらく黙っていた。
「……正直さ」
やがて、Aが言った。
「調べられるの、怖い」
「分かる」
「でも、一人で抱えるよりは、マシだ」
その言葉を聞いて、私はこの話から降りられないと悟った。
好奇心だけじゃない。責任感でもない。
ここで手を離したら、Aはもっと深いところに沈む。
「次は、君の実家の周辺を、もう少し具体的に見たい」
「地名、出したりする?」
「伏せる。全部、仮名にする」
Aは、少しだけ笑った。
「……ありがとう」
その夜、Aが帰ったあと私は一人で部屋に残った。
机の上には散らばった紙。そこにはまだ線は引かれていない。
点があるだけだ。
それでも、私は確信していた。
これは単なる噂集めにはならない。
私自身が、当事者ではないまま、当事者に最も近い位置に立ってしまった。
そして、その位置は、思っていたよりも、ずっと危うい。
語り手が変わると、同じ出来事でも輪郭がずれて見えることがあります。




