14
その場で深く聞くのはやめた。
新年会のあと、夜の街を歩きながら話すにはAの様子があまりにも不安定だったからだ。言葉を選ぶたびに、足取りが遅くなり、何度も立ち止まりかけていた。
「今日はもう帰ろう」
私がそう言うと、Aは少しほっとした顔をした。
それから数日後、私たちは改めて会った。場所は駅から少し離れた喫茶店だった。客は少なく昼間でも薄暗い店だ。
Aは前よりは落ち着いていた。ただし元に戻ったわけではない。
私はコーヒーを一口飲んでから言った。
「じゃあ、最初から聞かせて。帰省したところから」
Aは、少し考えてから、ゆっくり話し始めた。
「実家に着いたのは、年末の夕方。そこまでは、何もなかった」
その語り口は妙に事務的だった。出来事を順番に並べていく、という感じ。
「一日目は普通だった。親と飯食って、風呂入って、寝て」
「で、二日目」
私が言うと、Aは小さくうなずいた。
「二日目の朝から、なんか……家が変に静かだった」
静か、という言葉をAは何度か言い直した。
「音がしない、ってわけじゃない。生活音はある。でも、奥の方だけが、妙に遠い」
「遠い?」
「距離じゃなくて……感覚的に」
私は、メモを取るでもなく、ただ聞いた。
こういうとき、記録を取ると、語りが固くなる。私はそれを避けた。
「普段、行かない場所がある家って、あるだろ」
「あるね」
「そういう場所って、見ないようにしてるだけで存在は分かってる。でも、そのときは……存在してるのかどうか、分からなくなった」
Aはしばらく黙った。
私は急かさなかった。
「行こうとしたわけじゃない。でも、目に入る」
「何が?」
「廊下の先。奥の方」
「で、どうしたの」
「行かなかった」
即答だった。
「行かなかった。でも……行かないって決める必要があるのが、おかしかった」
私は、少しだけ眉をひそめた。
「普段は?」
「普段は、そんなこと考えない」
それはそうだ。
人は、普段行かない場所について「行かない理由」を考えない。ただ行かないだけだ。
「二日目の昼くらいかな。親が外出して、一人になった」
「そこで?」
「いや、その時点では、まだ」
Aは、コーヒーに手を伸ばしたが、結局飲まなかった。
「夜。風呂入って、部屋に戻って……寝る前」
「何か見た?」
「見てない」
きっぱりと言った。
「でも、分かった」
「何が」
「……奥が、違うって」
私はしばらく黙った。
違う、という言葉ほど扱いづらいものはない。
「違う、って、どういう意味?」
「説明できない。形が変わったとか、そういうんじゃない」
「じゃあ?」
「……“触れられる距離”に来た、って感じ」
私はその表現を頭の中で反芻した。
触れられる距離。見える距離でも、行ける距離でもない。
「それで、子どもの頃のことを思い出した?」
「思い出した、っていうか……思い出しそうになった」
Aは額を押さえた。
「映像みたいなのが、急に浮かんで、すぐ消える」
「どんな映像?」
「分からない。暗い。廊下。あと……匂い」
「匂い?」
「木と土。古い家の匂い」
私は少しだけ背筋が伸びるのを感じた。
匂いの記憶は強い。理屈よりも先に体に残る。
「その夜、どうしたの」
「寝た」
「それだけ?」
「……寝るしかなかった」
Aは、苦笑した。
「考えようとすると、眠くなる。無理やり意識が落ちる」
それを聞いたとき、私は初めてAの話に“線”を感じた。
点ではなく、流れ。
「で、次の日は?」
「……もっとひどくなった」
Aはそう言って、視線を落とした。
「でも、その話はまた今度にしていい?」
声が、少しだけ震えていた。
私はうなずいた。
「いいよ。無理しなくて」
正直なところ、私はすでにこの話に強く引き込まれていた。
都市伝説としてならよくある。だがこれは“話として面白い”段階を越えかけている。
A自身がまだ整理できていない。それが何よりの証拠だった。
私はその日、家に帰ってから久しぶりに自分のウェブサイトを開いた。
更新は半年以上していなかった。新しい記事を書くつもりはない。
過去に集めた東北の集落に関する小さな噂話をいくつか読み返した。
共通しているのは、「奥」「入らない」「子どもの頃」「思い出せない」 そういう、曖昧な言葉ばかりだった。
私はすでに、Aの話を“考察”し始めていたことに気づいていなかった。
理論は、理解のための道具であって、それ自体が真実であるとは限りません。




