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本作は、東北の一集落を舞台にした民俗学的フィクションです。
実在の地名・風習・人物とは関係ありません。
語りの形式、視点、記録の種類が話数ごとに変化していきますが、それ自体も物語の構造の一部です。
可能であれば、続けてお読みください。
実家に住んでいた頃、私は「奥」という言葉を、方向として理解していませんでした。
近いとか遠いとか、行けるとか行けないとか、そういう意味ではなく、ただ「そこには近づかない」という約束のようなものとして覚えていました。
家は山の斜面に沿って建っていて、正面から見ると平屋に見えましたが、裏に回ると半地下のようになっていました。土間があり、古い物置があり、使っていない部屋がいくつもありました。
どこまでが生活の場所でどこからがそうでないのか、はっきりと線が引かれているわけではありませんでしたが、使われていない場所ほど、静かでした。
音が、違ったのです。
人がいる場所では何かしら音があります。息遣い、足音、外から入ってくる風の音、遠くの車の音。そういうものが混ざります。
けれど、使われていない場所には、音が無いのです。正確には、音が消えていく感じがありました。自分の足音を吸い込まれるような、妙な静けさです。
私は幼い頃からその静けさが好きでした。
怖いと思ったことはあまり無かったと思います。むしろ、静かな場所に行くと、心が落ち着くような気がしていました。
母はよく忙しそうにしていましたし、父は仕事であまり家におらず、祖父母は、いつもどこかにいましたが、何をしているのかは分かりませんでした。
私は、一人で遊ぶことが多かった。
家の周りには、特別な遊び場はありませんでした。山があり、畑があり、田んぼがありました。集落には他にも何人か子どもはいましたが、年が離れていていつも一緒に遊ぶわけではありませんでした。だから、私の遊び場は決まって家の中でした。
廊下を歩き、部屋を覗き、使われていない押し入れの中を見て、戻る。それだけで、時間は過ぎていきました。
母は、私が家の中をうろちょろすることを止めませんでしたが、ただ一つだけ、何度も言われたことがありました。
「奥には行かないでね」
その言葉は、命令ではありませんでした。叱る声でもありませんでした。淡々とした、確認のような言い方でした。
私は「奥」がどこなのか、はっきりとは分かっていませんでした。それでも、その言葉を聞くたびに、同じ場所が頭に浮かびました。
廊下の先、一番奥の和室。
床の色が変わったさらに先。空気が、少し重くなる場所。
そこが「奥」なのだと、なんとなく分かっていました。
もともと、私はその場所に近づかないようにしていました。怖かったからではありません。
近づくと、何かが変わってしまう気がしたからです。何が変わるのかは、分かりませんでした。ただ、今までと同じではいられなくなる、という感覚だけがありました。
家の中には他にもいくつも部屋がありました。使っている部屋も、使っていない部屋もありました。
使っていない部屋は物置になっています。古い箪笥、壊れた椅子、使われなくなった布団。けれど、それらはただの物でした。
「奥」は違いました。
物があるのかどうかすら分かりませんでした。覗こうとすると、視線が途中で止まる感じがしました。
昼間でも暗いわけではありません。けれど明るさが届いていないように見えました。
たまに廊下の途中で立ち止まり「奥」を見ると、背中のあたりが、じんわりと温かくなることがあるのです。寒いわけでも、暑いわけでもない、曖昧な感覚です。
その感覚が出てくると、私は自然と引き返すのです。
その日も、特別なことはありませんでした。
空は曇っていて山の色が薄く見えました。外は静かで鳥の声もあまり聞こえませんでした。
母は台所にいました。包丁の音が、一定の間隔で聞こえていました。
私は廊下に座り、床を指でなぞっていました。何をしていたのか自分でもわかりません。
ふと、音が止まりました。
包丁の音が、聞こえなくなりました。
私は顔を上げましたが、台所の方を見ることはしませんでした。なぜか廊下の奥の方を見ていました。そこに何かがあるような気がしました。
見えたわけではありません。音がしたわけでもありません。
ただ、そこに「ある」と思いました。
胸の奥が少しだけ高鳴りました。嫌な感じではありませんでした。
私は立ち上がりました。
床を踏む音がいつもより大きく聞こえました。一歩、また一歩と進むたびに、家の中の音が遠くなっていきました。
包丁の音はもう聞こえません。私は境目のところで立ち止まりました。床の色が変わる、その場所です。
ここから先が「奥」なのだと、足が、少しだけ重く感じました。
それでも動かなくなるほどではありませんでした。
私は、足を前に出しました。
その瞬間、家の中の匂いが変わった気がしました。
それまでの生活の匂いではありませんでした。もっと古くて、長い時間動いていない場所の匂いでした。
私は、そこで立ち尽くしました。戻ろうと思えば戻れました。けれど、戻るという考えは頭に浮かびませんでした。
ただ、前を見るしかありませんでした。
その先に何があるのか、私は知りませんでした。けれど、知ってはいけないとも思いませんでした。
そのとき、誰かに呼ばれた気がしました。
声ではなかった思います。名前を呼ばれたわけでもありません。
ただ、「来た」と思われたような感覚がありました。
私は、さらに一歩、「奥」へ進みました。
――その先のことは、忘れていたはずなのです。
忘れていたのに、何度も夢に見るのです。
床の色。空気の匂い。背中に残った、あの温かさ。
あの日のことを。
この話は、後に語られる出来事の前提にあたります。
現時点では、意味がわからない描写が多いと思いますが、ご了承ください。




