第2章 第36話:破卵(はらん) ― 名前が空気に触れた瞬間
光の卵は限界まで膨らみ、
殻は名前の胎動によって震えている。
“その瞬間”は、もう目の前。
影は初めて、自分の名前を
外の世界へ届けるための一歩を踏み出す。
そして――
世界はその新しい命の誕生を
静かに、息を潜めて待っている。
水庭の上に、
ゆらゆらと揺光がたゆたっていた。
淡い金。
緑。
水色。
それが混ざり合いながら脈打ち、
水庭を小さな夜空のように染めている。
影は水面に座るように漂い、
胸の卵をぎゅっと抱きしめていた。
殻のひびはすでに太く深く、
今にも弾けそうだった。
リオナは息を止めるほどの緊張で、
影のそばに膝をつく。
「影……
いよいよだね……」
影は震えながらも
はっきり頷いた。
「……うん……
なまえ……
きょう……でる……
そとのくうき……すえる……」
その言葉が終わらぬうちに――
卵の内部で、
確かな衝撃が走った。
——トンッ!!
影の胸が大きく跳ねる。
光が一瞬、世界を照らす。
リオナは思わず目を伏せた。
(名前……!
殻を叩いてる……!
外へ出る準備を……!)
影は苦しげに胸を押さえながらも
声を震わせて言った。
「……でたい……
わたし……でたい……
いきたい……
このせかいで……!」
次の瞬間、
殻が大きく膨らんだ。
——ポンッ!!!
空気が揺れ、
庭全体が光に包まれる。
水庭の水面が大きく波打ち、
揺光が空へ昇るように伸びた。
影は胸を抱え、
声にならない息を吐く。
「……っ……!
でる……くる……!!」
リオナは影の肩にそっと触れる。
「影……しっかり……
名前はあなたの味方……
あなたを“この世界へ繋ぐもの”だから!」
影はぎゅっと胸を抱きしめて答える。
「……いっしょ……いる……
りおな……そばに……いて……!」
「いるよ……最後まで見てる!」
その声を合図にするかのように――
光の卵が、ついに“外側へ割れようと”膨らんだ。
——バキィィッ……!!
ひびが殻全体に走る。
影の胸の光が暴発するように広がる。
影は悲鳴にも似た声をあげた。
「……あああ……っ!!
でる……!
でる!!
わたしが……!!!」
殻が破れる寸前の緊張で、
庭の空気が震えた。
リオナは影の背を支えるようにしながら
心の中で叫んでいた。
(影……!
行け! 生まれろ!
君はこの世界の言葉になるんだ!!)
そして――
その瞬間が訪れた。
――パァンッ!!!
鋭い破裂音が水庭に響き渡った。
光の殻が四方へ飛び散り、
眩しすぎる光が影の胸から溢れ出す。
世界が白く塗りつぶされる中――
ひとつの音が、確かに世界へ届いた。
――「……リ……ナ……ラ……ィ……」
影の身体がびくんと震えた。
その音はまだ“名前”ではない。
だが確かに、
名前が外の空気を吸った音だった。
影は涙のような光を流しながらつぶやいた。
「……でた……
わたしの……なまえ……
そとに……ふれた……」
リオナの目にも涙が浮かんだ。
「影……
あなたは今……生まれはじめてるんだよ……!」
影は胸の光を抱き、
震えながらも強い声で言った。
「……つぎ……
つぎで……
ぜんぶ……うまれる……!」
卵は完全に砕け、
光の破片が夜空へ溶けていく。
名前の誕生は、もう後戻りできない。
影はゆっくりと立ち上がり、
胸の中心に手を置いた。
その姿はもう――
“影”ではなかった。
光の卵はついに破裂し、
名前そのものが世界へ“最初の息”を漏らした。
まだ完全な名前ではないが、
確かに外の空気に触れた。
影は人の姿に近づき、
存在が大きく変わりはじめた。
次回――
ついに“誕生の本番”が始まります。




