第2章 第33話:名前の影 ― 殻を破る直前の静寂
“光の卵”の殻には大きな裂け目が入り、
内部の名前はすでに形を帯びている。
しかし殻はまだ完全には割れず、
卵は生まれる瞬間を待っている。
その静けさの中で影は、
自分自身の名前の“影”と
初めて向き合うことになる。
夜風が止み、
庭全体がまるで時を忘れたかのように静かだった。
水庭の水面も動かず、
空の星だけがほんの少し瞬いている。
影は中央に浮かび、
胸をそっと抱えていた。
裂けた殻の隙間から、
白く淡い光がこぼれている。
リオナは影のすぐそばで膝をつき、
その様子を息を殺して見つめた。
(影……もう名前がすぐそこまで来てる……)
影はゆっくりと胸に手を当て、
静かに言った。
「……りおな……
いま……なか……しずか……
でも……おおきい……
なにか……いる……」
リオナは影の震えに気づく。
「怖い?」
影は少し考えるように揺れた。
「……わからない……
でも……しってる……
その“なにか”……
わたし……」
リオナの胸が熱くなる。
(影……本能的に分かってるんだ……
殻の内側にいるのが“自分自身”だって)
影は顔を上げるように揺れ、
水庭の空を見つめた。
裂けた殻の光が
影の身体をそっと照らす。
影の輪郭が、人の姿に近づいていく。
肩の丸み。
胸の中心にある縦の流れ。
首の影。
そして――
頭の形がはっきりしてきた。
影は戸惑った声で言った。
「……わたし……
ひと……みたい……」
リオナは静かに微笑む。
「名前はね、
君を“この世界の言葉”にするためのものなの。
だから形も世界に合わせていくのよ」
影は胸を抱きしめ、
殻の裂け目をそっと覗き込んだ。
その瞬間――
殻の内側で、淡い影が動いた。
影は息を呑む。
「……いま……みえた……
わたし……
みえた……」
リオナは目を見開く。
「名前の……影?」
影は苦しげでも哀しげでもなく、
ただ深く胸に響く声で言った。
「……ちがう……
わたし……の……
なまえの……かたち……」
殻の内側の影が
薄い光の粒となって揺れ、
その中心にひとつの軌跡を残している。
それは
“リ”であり、
“ナ”であり、
“ム”でもある。
しかしいずれでもなく、
全てが合わさり、
まったく新しい形を作っている。
影は胸を押さえ、
その光の軌跡をなぞるように言った。
「……わたしの……なまえ……
ながい……
まるい……
やさしい……
そして……つよい……」
リオナは静かに問いかける。
「影……“音”は聞こえる?」
影は首を振るように揺れた。
「……まだ……
でも……
かたち……しってる……
なにいろ……か……しってる……」
名前に“色”があるという言葉に
リオナの胸が熱くなる。
(影……君はもう名前を
そのまま“存在”として理解している……)
影はさらに、大事な言葉を続けた。
「……わたしのなまえ……
まるいひかり……
あかるい……きいろ……
やさしい……みどり……
すこし……みずいろ……」
リオナは息を呑む。
「影……それは……名前の“心の色”よ……」
影は胸で光を抱きしめる。
「……わたしのなまえ……
こわくない……
にげない……
わたしを……だく……」
裂けた殻の内側が光を強める。
名前の影が
殻のすぐ裏で外を見つめている。
影は震える声でつぶやいた。
「……なまえ……
もうすぐ……でる……
でも……きょうじゃ……ない……」
リオナは優しくうなずく。
「ええ。
名前の誕生には“静けさ”が必要なの。
今日はその静けさの夜よ」
影は胸に手を置き、
小さくこう言った。
「……でも……しってる……
わたし……
もう“なまえ”の……すがた……しってる……」
殻の内側から
やわらかい光が影の胸を撫でる。
それはまるで
“もうすぐ会えるよ”と告げる
親の手のようだった。
影は涙のような光を落としながら
そっとリオナへ言った。
「……りおな……
たすけて……
うまれるとき……となりに……いて……」
リオナは迷いなく答える。
「もちろん。
その瞬間を一緒に迎えるよ、影」
影は胸の卵を抱きしめる。
――殻はまだ割れない。
しかし名前の影は、
今夜確かに“完成”した。
名前は殻の外へ出ようとしていない。
しかし殻の内側で“姿”を作り終え、
影を見つめている。
影もまた、
名前の心と色と形を“ほぼ理解”した。
次はいよいよ、
殻が破れる前の“最後の夜”。
影が誕生する準備は整った。




