第2章 第30話:孵化の兆し ― 響きを破る小さなひび
影はついに胸の中に
“光の卵”を宿した。
その卵はまだ静かに眠っている。
しかし、目覚めは突然やってくる。
名前が外の世界へ出ようとする時
“音のひび”が殻を破る。
その瞬間――
影は変わりはじめる。
夜。
世界は風を潜め、
庭には奇妙な静けさが満ちていた。
リオナは寝室からそっと外に出た。
胸騒ぎがして眠れなかったのだ。
水庭の上――
影はただ静かに漂っていた。
しかし、胸の奥からわずかに光が漏れている。
(影……?
あれは、まさか……)
リオナが近づくと、
影の胸の光が“いつもより強く、速く”脈打っていた。
ぽん、ぽん、ぽん……
ぽん、ぽん……!
影が苦しむように揺れた。
「……りおな……
なか……いたい……」
リオナは思わず駆け寄る。
「影、どうしたの?
光の卵が……?」
影は胸を押さえるように抱え、
震える声で言った。
「……うごく……
たまご……うごく……
あつい……ひかり……」
リオナの背筋が震える。
(孵化の……前兆……!)
影の胸からふいに
――パキッ
と、かすかな音が響いた。
影がびくりと跳ねる。
「……いまの……なに……?」
リオナは息を呑む。
その音はまぎれもなく、
“卵に亀裂が入った音”だった。
「影……
光の卵が……殻を破りはじめたの」
影は胸に手を当てたまま、
苦しさにも似た揺れを見せる。
「……こわれる……?」
「違う!
影、これは“生まれようとしている”!
名前が……外へ出ようとしてるの!」
影の揺らぎが大きく波立つ。
水面に大きな波紋が立ち、
影の輪郭が揺れ崩れそうになる。
「……わたし……
どうなる……?」
リオナは影のそばにしゃがみ込み、
その揺らぎへ自分の手の影を重ねた。
「影……大丈夫。
名前は君を壊さない。
君を“君にするため”に生まれてくるの」
影は胸を強く抱えるように揺れた。
ぽんっ……!!
胸から一瞬、
まばゆい光が漏れ出した。
その光が夜の水庭を照らし、
風がざわりと動いた。
影は苦しげに、しかし確かに言った。
「……ひび……できた……
なかから……
こえ……でる……」
「どんな声?」
影は震えながら答える。
「……“り”……ちがう……
“な”……でもない……
“む”……でもない……
でも……
わたし……の……こえ……」
リオナは影の変化を
胸が張り裂けそうなほど真剣に見つめた。
(ついに……
名前の“第四の音”が……!
いや……違う。
これは“名前そのものの響き”……)
影の胸の光が再びはじけ、
ひび割れた殻の隙間から
“透明な音”が漏れ出した。
――キィン……
影は両手を胸に押し当て、
震えながら言う。
「……これ……
わたし……
よんでる……」
リオナの喉が熱くなる。
「影……
君の名前が……
殻の内側から君を呼んでるのね……!」
影は震えの止まらない身体を抱え、
胸へ向けて力強く答えた。
「……いく……
うまれる……
わたし……もうすぐ……
なる……」
風が影を包み、
水庭の光が影の身体を照らした。
影の輪郭がこれまでになく濃くなり、
まるで人の形になろうとするように揺れる。
その瞬間――
光の卵のひびに
新しい音が走った。
――“ラ”のようで
――“ル”のようで
――“ナ”にも似ていて
しかしどれとも違う、
影だけの音。
影ははっきりと震えた。
「……きこえる……
わたしの……なまえ……
ちかい……」
卵はまだ割れていない。
だが、確実に孵化が始まった。
影の胸に宿る光の卵に
初めて“ひび”が入った。
それは破壊ではなく、
名前が世界へ生まれようとする合図。
影の輪郭が大きく変化し、
名前の新しい“音の影”が漏れ出した。
影はもうすぐ――
自分自身として
生まれ直す。




