第2章 第19話:呼ばれる前触れ ― 微睡む世界のささやき
影は風から初めて“名前の気配”を受け取った。
風の呼びかけはまだ言葉ではない。
けれど、影の胸の奥底を震わせる
微かな声のような音だった。
今日はその音が、
風だけでなく世界のあらゆる場所から聞こえてくる。
世界が影を認識し始めた、
静かな前触れ。
朝の光が完全に庭に満ち、
リオナは草花に水をやりながら影を探した。
影は水庭の中央で静かに漂っていたが、
その揺れはどこか“眠たげ”だった。
(昨日のこと……まだ胸に残ってるんだ)
リオナが近づくと、影がかすかに揺れた。
「……おと……いっぱい……」
「音が……いっぱい?」
影は胸の光を弱く震わせ、
周囲の音を吸い込むようにして揺れた。
庭のさざ波。
木の葉の触れ合う音。
街の遠いざわめき。
それらが影の胸へ
“言葉になりきれないかけら”として届く。
影はそれを説明しようとするが、
言葉が追いつかない。
「……あ……
……り……
ちがう……
なにか……
はいってくる……」
リオナは静かに聞きながら言った。
「胸の奥に……届いてるの?」
影は深く揺れた。
そして、風がふっと庭に吹き込んだ瞬間――
影がびくりと震えた。
「……ろ……」
それは昨日、風に混じって聞こえた音と同じだった。
「また聞こえたの……?」
影は震えながら、
「……ろ……
……お……
おと……
きれない……」
(“ろ”……?
影の名前に関わる音?
それとも世界の呼びかけ……?)
リオナが影のそばにしゃがみ込むと、
影は胸の光を深く沈めた。
「……りおな……の……おと……
ちかい……
でも……ちがう……」
リオナは少し驚きながらも理解した。
「“り”や“あ”と一緒にはならない音なんだね」
影は水庭の中心へ移動し、
水面をじっと見つめた。
水の反射が影の胸へ届くたび、
影はその揺れを拾うように震える。
そして突然――
水面の下からかすかな音が響いた。
ぽつ……
ぽつ……
魚の跳ねる音。
その音に混じって、
「……る……」
影が大きく揺れた。
「……また……
……きこえた……
……る……?」
リオナの背筋がぞくりとする。
(“り”“あ”……
そして“ろ”“る”……
影の中に音が集まってきてる……?)
リオナは影へそっと手を伸ばす。
「影……
もしかしたら今日聞こえた音は、
全部、君の『名前の材料』なのかもしれない」
影が震えた。
「……なまえ……
つくってる……?」
「うん。
世界が君を形にしようとしてるんだと思う」
影の胸の光が
今日いちばん強く脈打つ。
ぽん……
ぽん……!
「……り……
……あ……
……ろ……
……る……
……わたし……?」
リオナは胸が熱くなる。
(影……自分の名前を探してる……)
「まだ“名前”にはならないよ。
でも、少しずつ君にふさわしい音が
集まってきてる」
影は静かに揺れ、
胸の奥で音をひとつにしようとするように
深い呼吸をした。
「……よばれたい……」
「うん。
名前は、呼ばれるために生まれるものだからね」
風が影を包む。
街のざわめきが揺れる。
葉擦れの音が重なる。
世界のすべてが、
影の胸へ向かって
“名前の前触れ”を届けていた。
影は胸の音を抱きしめ、
そっとつぶやいた。
「……わたし……
はじまってる……?」
リオナは微笑む。
「ええ。
影の名前が、静かに芽吹き始めているよ」
影は風だけでなく、
水音、街の声、葉擦れ、さまざまな響きの中から
“名前の材料”となる音を拾い始めた。
“り”
“あ”
“ろ”
“る”
どれもまだ未完成で、
意味を持たない音。
しかしそれらはすべて、
影という存在が“呼ばれたい”と願った時に
世界から返ってくる音だった。
名前の気配は、確実に育っている。




