第2章 第17話:影のゆびさき ― 空に描かれた初めての形
影は二つの音を覚えた。
“あ” と “り”。
それはまだ言葉ではない。
けれど影にとっては、
リオナと世界をつなぐ大切な響き。
そして今日、
影は音だけでは足りなくなる。
伝えるために、
影は空へ“初めての形”を描く。
午前の光が庭を照らし、
水庭の水面はゆらゆらと光を返している。
リオナは朝食を片付け、
庭に出て影を探した。
影はいつもの場所――
水面の端にいたが、
今日は揺れ方がまるで違った。
小刻みに震え、
胸の光は何度も脈を打ち、
風が影を中心に渦を巻くように動いている。
(……何か、“作ろう”としてる……)
リオナが近づくと、影が正面に向き直った。
「……りおな……」
「……あ……り……」
昨日覚えた音を重ねながら、
胸の光が強く膨らむ。
リオナはその気配に息をのむ。
(影……何をしようとしてるの?)
影は揺れを止め、
胸の光を一点に集めた。
すると――
影の“指先”にあたる部分だけが、
ほのかに尖るように形を持ち始めた。
(影に……指先……?)
影はその小さな尖った形を
ゆっくりと空へ向ける。
そして――
空に光の線を描いた。
ひゅう……
すっ……
風でも、霧でもない。
影が意志で描いた光の軌跡。
まるで空に
透明な筆先を走らせたような、
静かで美しい線。
リオナは思わず立ち尽くす。
(なんて……綺麗……)
影は描いた線を見て、
胸の光を震わせる。
「……かたち……」
「形……描いたの?」
影はゆっくり頷くように揺れた。
光の線は、
円に届かない半円のようなもの。
でもその端には、
“次の線を描こうとしている意志”が
はっきりと見える。
影は再び指先を動かし、
空に線を描く。
こんどは小さな点。
そのあと、
ぎこちないけれど確かな曲線。
すっ……
ぽつ……
くるり……
リオナは気づいた。
(……影……これは……)
影が描いているのは、
“文字”ではない。
しかし――
「あ」と「り」の形の気配が混ざっている。
影の胸が震える。
「……り……
……あ……
……かたち……」
リオナはそっと言葉を落とす。
「ねぇ影。
もしかして……
“リオナ”って形にしたいの?」
影の揺れが大きく波打つ。
胸の光が、
今日いちばん強い鼓動を刻む。
ぽん……
ぽん……
ぽん……!
影は空へ向け、
最後の線を描いた。
それは不完全で、
文字としては読めない。
けれどリオナには分かった。
それは――
“あなたを呼びたい”という心の形。
影はゆっくりリオナの方へ振り向く。
「……り……
……あ……
……りお……
……な……」
リオナの胸が震える。
まだ名前にはならない。
でも影は確かに、
世界で初めて“誰かの名”を呼ぼうとしていた。
リオナはそっと影へ手を伸ばした。
触れられなくても、伝えたい思いがある。
「影……
その形、すごく綺麗だったよ。
私を呼ぼうとしてくれたんだね」
影が胸の光を震わせる。
「……よびたい……
ことば……
つくりたい……」
その声は、
風よりも静かで、
でも世界のどんな言葉よりもまっすぐだった。
影は初めて
“呼びたい名前”を持った。
影は音を覚え、
次に“形”を描いた。
描いた線は不完全で、
文字ではない。
でもその奥には、
確かに“リオナ”という音への憧れがあった。
影は言葉の前段階で
心の形を描き始めた。
世界に向けてではなく、
たった一人の人へ向けて。




