第2章 第16話:音のひびき ― 影が覚えたもう一つの音
言葉を知らない影が初めて発した音、「あ」。
それは影にとって、
世界へ向けて踏み出した最初の鼓動だった。
今日は、影が二つ目の音に触れる。
その音は、世界のどんな音よりも
影の胸に深く響く音。
“リオナ”という名前に
そっとつながる小さな音。
朝の光が柔らかく庭に差し込み、
水庭には静かな波紋が広がっていた。
リオナは縁側で
朝食の準備をしながら影に声をかけた。
「おはよう、影」
影は水面の上でゆっくり揺れ、
胸の光が小さく震える。
昨日覚えた「音」を
もう一度確かめるように――
「……あ……」
リオナは微笑む。
(この音は、影にとって“最初の言葉”)
「もうひとつ、音を覚えてみる?」
影は胸の光を静かに強くした。
「……しりたい……」
その揺れは迷いがなく、
願いがまっすぐ光っている。
リオナは影の前に座り、
ゆっくりと息を整える。
そして――
影に向けてもうひとつの音を落とした。
「……り……」
影が揺れた。
水庭の水面も小さく震えた。
「……り……?」
「うん。“り”。
少し細くて、きらっとした音」
影は胸の光を鋭く細くし、
その音の形をなぞるように震える。
「……り……
……り……」
リオナの胸に静かな熱が広がる。
(この音を……選んだんだ)
影が自分から求めたわけではない。
しかし影の揺れ方を見れば分かる。
この音は、影の心に深い共鳴を起こしている。
影はもう一度、
リオナの口元を見る。
「……り……」
前よりもはっきりとした音。
リオナは息を呑んだ。
「その音ね……
私の名前に入ってるんだよ。
“リオナ”の、最初の音」
影の揺れが止まる。
胸の光がはっきりと膨らみ――
「……り……
……りお……?」
リオナの心臓が跳ねた。
(……影が……“リオナ”を探してる)
「ゆっくりでいいよ。
まだ全部言えなくていい。
“り”だけで十分」
影の胸の光が
小さく、小さく震える。
「……り……
……あ……
……り……
……あ……」
音が揺れて混ざり、
影の中でひとつの気配を作っていた。
(“り”と“あ”。
リオナの名前を作る音)
影は言葉を知らない。
名前という概念も理解していない。
でも――
影の心は確かに
リオナへつながる音を選び取っていた。
影はふいに
リオナへすっと寄った。
その揺れは、
“この音はあなたの音”
と言っているような震え。
リオナは静かに手を胸に当てる。
「影……もしかして……
“リオナ”って呼ぼうとしてるの……?」
影は答えない。
けれど胸の光は、
今日いちばん強くやさしく輝いた。
水庭の風がふたりのあいだを通り、
影の揺らぎをそっと抱き上げる。
「……り……
……あ……
……り……」
音が――
祈りのように重なる。
その瞬間、リオナは確信した。
影は今、
“リオナ”という名前の入口に立っている。
影の心が、
世界と誰かを結ぶ
最初の名前を探し始めた朝だった。
影が覚えた二つ目の音――「り」。
それは偶然ではなかった。
影の心が自然と選び取った音。
リオナという名の、最初の響き。
影は言葉を知らないまま、
言葉の本質である「つながり」を
本能的に求め始めた。
“誰かを呼びたい”
“想いを届けたい”
その願いは、
音を通して確かに育っている。




