第2章 第7話:薄暮の鼓動 ― 心が世界を押し返した瞬間
午後に生まれた影の“内側の影”。
それは、影にも理由の分からない揺らぎだった。
それが夕暮れになるころ、
静かに脈を打ち始める。
そして影は初めて――
世界の風に対して、
自分の揺らぎを返す。
夕暮れがやわらかく庭に降り、
空気は夜へ向かう準備を始めていた。
水庭の水面は鏡のように静かで、
空の色をそのまま抱き込んでいる。
リオナは草を摘み終えて、
手のひらで香りを確かめていた。
そのとき――
影が庭に降りてきた。
(今日の影は……静かじゃない)
静かではある。
けれど、沈んでいるのではなく、
内側のどこかが脈打っている。
リオナは影にそっと声をかける。
「おかえり。
今日は……どんな風だった?」
影は答えず、
水庭の前へゆっくり進む。
動きはゆっくりなのに、
その気配はいつもより濃い。
夕陽が庭の端に沈みかけた瞬間――
影の中心で、
小さな光の点が“脈動”した。
ぽん……
ぽん……
それは心臓の鼓動のようでもあり、
風の間を叩く音のようでもあった。
リオナが息を飲む。
(これは……内側の影……!)
影の内側で生まれた“芯”が、
世界に向けて息を返そうとしている。
影が、水面の前で立ち止まる。
風が吹く。
影が揺れる。
世界はいつものように影を押す。
だが――
その瞬間、
影が“揺れを押し返した”。
風が、ほんのわずかに逆へ流れたのだ。
リオナは驚き、
水庭の端へ寄る。
「今……押した?」
影は震える。
否定でも肯定でもない。
ただ――自分でも驚いているような揺れ。
「……なに……これ……?」
「君の中の……“芯”が動いてるんだね」
影は自分の胸にあたる場所を見下ろすように揺れ、
また脈を打つ。
ぽん……
ぽん……
そのたびに、
水面がごく小さく波立った。
(世界が影を揺らすのではなく、
影が世界へ揺らぎを返している……)
影が、
自分の存在を外側へ向けて“発信”していた。
影がかすかに声を落とす。
「……こわく……ない……」
「うん。
それは怖がるものじゃないよ」
影は続ける。
「……でて……いく……かんじ……」
「そう。
君の心が、世界に触れ返してるんだよ」
影は水面をじっと見つめる。
水に映る“影の揺らぎ”が、
夕陽と混ざり合って淡く輝いている。
その光景が、影の内側と外側を
ゆっくりと結びつけていく。
影が震えながら言う。
「……わたし……ここに……いる……?」
リオナは静かに微笑む。
「いつもいたよ。
でも今は——“いた”じゃなくて“いる”だね」
影が胸のあたりを膨らませるように揺れ、
光が再び小さく脈動した。
ぽん……
ぽん……
世界が押し、
影が返し、
ふたりの境界がゆっくり重なりはじめる。
夕暮れの空が夜に変わる頃、
影の脈は静かに落ち着いた。
リオナは風を受けながら言う。
「その鼓動はね、
君が“ここにいたい”って言ってる証だよ」
影は応えるように、
風の中で静かに震えた。
それは
“世界に返事をした影”が初めて見せた、
小さな小さな“存在の息”だった。
影は初めて、世界へ“揺らぎ”を返した。
これまで風に押され、光に照らされ、
ただ受け取るだけだった影が、
自分の内側の芯から脈を打ち、
世界の風を一瞬押し返した。
それはまだ声ではない。
言葉でもない。
でも――
「わたしはここにいる」
という、影の最初の意思だった。




