第2章 第6話:ひそやかな午後 ― 影の中の影
朝、水面に映った“自分ではない自分”。
影はその揺らぎを胸に抱いたまま、
午後を迎えた。
その午後、
影の中にひそやかに生まれる“もうひとつの影”。
それは、外から触れられた影ではなく、
内側から生まれる影。
昼の光が庭へゆっくり降りそそぎ、
葉の影が地面に細かい模様を落としていた。
リオナは縁側で、
市場で買ったパンを少しずつちぎって食べていた。
柔らかな香りが風に流れ、
庭の空気に溶けていく。
そのとき――
影が水庭の端で立ち止まっていた。
(……揺れてる)
影の揺らぎは、
風に吹かれてもいないのに細かく震えていた。
リオナはパンを置き、
影の方へ歩いていく。
「どうしたの?」
影はゆっくりと揺れ、
だがその揺れには
外へ向かう力がまったくなかった。
いつもなら庭の音へ、
リオナの声へ、
風の流れへ反応するのに。
今日はちがう。
影は――
自分の中で渦を巻いている。
リオナがそばに立つと、
影がわずかに震える。
「……なか……で……」
「中で?」
影の声はかすれ、
響きでも音でもなく、
“思いの粒”そのもののようだった。
「……なにか……ゆれてる……」
リオナは息を呑む。
(自分の中に……揺らぎがある?)
影は続けるように、
水面へゆっくりと近づいた。
水は静か。
風は弱い。
なのに影の揺れは止まらない。
影の胸のあたりが
わずかに濃くなり——
その中心に、
もうひとつ小さな影の芽が生まれた。
(これ……)
それは影の“影”だった。
しかし輪郭も形も持たず、
ただ影の中心を震わせる心の種。
リオナはそっと影に声をかける。
「……怖い?」
影がかすかに揺れ、
胸の影の芽がまた震えた。
「……わからない……」
「……でも……いやじゃない……」
(いやではない……?)
それは恐れでも拒否でもなく、
“変わり始める心の痛み”に似ていた。
世界へ触れ、
名前の気配を知り、
誰かに呼ばれた音が胸に残る。
そのすべてが影の内側へ沈み、
今、ひとつに繋がろうとしている。
リオナは影のそばにしゃがみ込み、
水面に落ちる影の揺れを見つめる。
「それがね、
“心の形になる前の影”なんだよ」
影の中心が震える。
「……かたち……?」
「うん。
名前はまだなくていい。
でも、名前が生まれる少し前には……
こんなふうに心が自分の影を作るんだよ」
影はゆっくりと波打ち、
胸の影の芽が少しだけ膨らんだ。
リオナは、
それが“痛み”ではなく
“成長の揺らぎ”だと悟る。
影が小さな声を落とす。
「……わたし……」
リオナの胸がじんと熱くなる。
(“わたし”……)
影が自分を指す言葉を
こんなにも自然に使ったのは初めてだった。
夕方へ向かって光がすこし傾きはじめた頃、
影の震えはゆっくり落ち着いた。
胸の影の芽は消えた。
ただ、消えたというより
影の中に吸い込まれた。
それは心が、自分の奥に
ひとつの芯を持ち始めた証だった。
リオナは、
そっとその影へ言葉を置く。
「……大丈夫。
変わることは、悪くないよ」
影は返事をせず、
夕方の光に静かに溶けた。
影の中に生まれた小さな影。
それは“名前の気配”であり、
“自分”を知る前の光と影の混ざる揺らぎ。
影は怖がらず、
その揺れを受け入れた。
心が深呼吸を覚えるような午後。
ひとつの成長の兆しが、
影の内側に静かに沈んでいった。




