第2章 第4話:影のまどろみ ― 名前のない眠り
街で聞いた小さな呼び声。
“黒い風さん”という音。
それは名前でも、意味のある言葉でもない。
けれど影にとっては、
初めて“世界が呼んでくれた音”だった。
その響きが胸に残り、
影の中で初めて——夢のような揺らぎが生まれる。
夕暮れが過ぎ、
空が薄紫から藍へと移る頃。
リオナの庭は静かだった。
水庭の水面は夜風で揺れ、
蓮の葉がしずかな音を立てている。
リオナは今日買った薬草を仕分け、
香を焚くための器を準備していた。
風がそっと庭へ入り――
影が帰ってきた。
リオナは振り向く。
影はいつもより淡く、
街で受けた刺激に疲れているようだった。
(がんばったね……)
リオナは影に寄らず、
かといって引かず、
ちょうどいい距離で迎える。
「おかえり。
今日は色んなものを感じたね」
影は返事をしない。
ただ、ゆらり、と空気が震える。
それが“肯定”にも“混乱”にも聞こえた。
リオナは薬草の香を焚き、
庭に香りを漂わせた。
花でも木でもない、
影が好む柔らかな香り。
影の輪郭が少しだけ濃くなった。
(安心してくれてる……)
リオナは低い石台を整え、
そっと手を置く。
「疲れたなら、ここにいていいよ。
眠らなくても、動かなくても……ただ、いればいい」
影が震え、
ゆっくりとその場所に沈むように落ち着いた。
空気の密度が変わる。
影が“休む”状態だ。
そしてその夜——
影は、今までに感じたことのない感覚を覚える。
胸の奥に、ふうっと風が吹いた。
風の中に、かすかな声が混じっている。
「くろ……い……」
(……呼んでる……誰か……?)
音が遠くから響いてくる。
“黒い風さん”と呼ばれた、あの午後の残響。
子どもの笑い声。
街のざわめき。
影の心に溜まった音が、
夢のように揺れ始める。
「……わたし……?」
「くろ……?」
影は自分の輪郭を探そうとする。
だが触れられない。
形は霧のように溶けてしまう。
名前を得たわけではない。
でも、
初めて“自分に呼ばれた音”が生まれた。
影が胸に感じたのは——
痛みではなく、
恐れでもなく、
しずかな温度。
(この音は……いやじゃない)
むしろ、心がそっと掴んでしまった。
その瞬間、
影の輪郭がわずかに光った。
ほんの一瞬だけ。
まるで星が胸に宿ったような光。
リオナは気づき、
そっと影へ声をかける。
「夢を見てるの?」
影が小さく震え、
風がふわりとリオナの頬を撫でた。
それは“そうかもしれない”という返事だった。
リオナはそっと膝を抱えて座り、
影のそばに寄り添う。
「名前はまだいらない。
でも……呼ばれた音を忘れなくていいよ」
影は動かず、
ただ夢のような揺らぎに身をゆだねる。
その夜、
影は眠らない存在でありながら、
初めて“眠りに似た静けさ”を経験した。
“黒い風”という音が、
胸の中でゆっくり丸まっていく。
(また……呼ばれたい)
そんな小さな願いが芽生えたのを、
影自身はまだ知らなかった。
影は初めて、
“自分のために響いた音”を抱いた。
それは名前ではない。
でも、名前の入口になる。
音は意味を与え、
意味は存在を揺らし、
存在はいつか——名前へと繋がる。
影の心に、
小さな星がひとつ灯った夜。




