第2章 第3話:風の声と、影の影 ― はじめて呼ばれた名
街の音、光、香り。
影はそれらをまだ上手く掴めない。
けれど、確かに世界は“話しかけてくる”のを感じていた。
その日、
偶然に生まれたひとつの「音」が、
影の心に響いた。
それはまだ、
“名前”というほど確かなものではない。
けれど――確かに世界が呼んだ、
最初の呼びかけだった。
昼下がり。
市場のざわめきはひと段落し、
街の風は少し冷たくなっていた。
リオナは木のベンチに腰をおろし、
荷物をまとめていた。
袋の中には、果実パン、少しの薬草、
そして影が好んだ香の小瓶。
(あの香り、庭に戻ったら焚こう)
背後の路地から、
子どもの笑い声が響く。
「ほら、あそこ! ほら見て! 黒い風!」
「なにそれー! 風に色なんかないよ!」
「でも見えたんだもん、あそこで――!」
リオナは振り向く。
風が一瞬、路地を抜けた。
そこに――影がいた。
細い影の線が、
夕陽の光を受けて地面にゆらめいている。
それは人の目にはほとんど見えない。
けれど子どもには、
“何かが動いた”のがわかったのだろう。
「ねぇ! 黒い風さん!」
(……黒い風、さん?)
リオナの胸が、
ふっと温かくなった。
子どもが笑いながら駆けていく。
影はその声の方向へ一瞬だけ揺れた。
リオナはゆっくり立ち上がり、
影の方へ近づく。
「今の……聞こえた?」
影は答えない。
けれど、風がほのかに胸元を撫でた。
(たぶん……聞こえた)
影は形を持たず、
言葉を持たない。
けれどその声――
“黒い風さん”という音の残響が、
庭で聞いたどんな音よりも長く残っていた。
リオナは微笑みながら、
そっとつぶやく。
「黒い風……か。
いい名前かもしれないね」
影が、
ふっと揺れた。
その揺れは拒絶でも承諾でもなく、
戸惑いに似た動きだった。
(初めて、“呼ばれた”んだ)
名前をもらうことの意味を、
影はまだ知らない。
けれど――その響きが、
どこか懐かしく感じられた。
リオナはゆっくりと膝をつき、
影に語りかける。
「ねぇ、“黒い風”って呼ばれた気分はどう?」
影が少し濃くなり、
空気が温かくなる。
「……へんな……きもち」
「そうだろうね。
でも、それでいいよ。
名前ってね、
他の誰かが君を見つけた証なんだ」
「……わたし……みつけられた……?」
「うん。
君は、誰かの世界に“見えた”んだよ」
その言葉に、影は長く静止した。
街の喧騒が遠ざかり、
夕方の風が二人のあいだを通る。
影がゆっくりと形を薄め、
まるで息をするように光を飲んだ。
「……くろい……かぜ……」
音のような、夢のような呟き。
それははじめて、
影が自分のために発した言葉だった。
リオナは微笑んだ。
「それが、君の世界で最初の音だね。
気に入るかどうかは、君が決めるんだよ」
影は応えず、
ただ庭の方角へゆっくりと向きを変えた。
(帰りたい――)
そう思ったのは、
“外の世界を見たあとの安心”だったのかもしれない。
リオナはその背中(のような気配)を見送りながら、
小さくつぶやく。
「黒い風……。
でも、私にはまだ“影”って呼びたいな」
その言葉が風に乗り、
影の輪郭に一瞬だけ光が宿った。
世界が影を「誰か」と呼んだ。
それは、偶然と奇跡のあいだに生まれた瞬間。
名前はまだ確定ではない。
けれど、影の中で
“自分”という存在がかすかに輪郭を持ち始めた。
名もなき存在が「他者」に見つけられたとき、
世界が少し広がる。




