第2章 第2話:街の気配、影の息 ― はじめてのざわめき
庭を出て、初めて風の向こう側に足を向けた影。
世界は思っていたよりも明るく、
そして少しだけ、ざわめいていた。
影はまだ「見る」ことができない。
けれど――「感じる」ことなら、できる。
街への小道は、光と音でできていた。
石畳のすき間に咲く小花、
軒先で揺れる布、
人々の足音が刻む小さなリズム。
リオナは歩きながら、
ふと後ろを振り返った。
そこに、
確かに“気配”がついてきていた。
(見えなくても、分かる。
風がいつもより、柔らかく背を押してくる)
影は地面に落ちる影の隙間にまぎれながら、
少しずつ街の気配へと溶け込んでいく。
人々の声が、
色のない水面を叩くように響いてくる。
「いらっしゃい!」
「もうすぐ市が開くよ!」
「パン、焼きたてだよ!」
影はそのすべてを、音ではなく
感覚として吸い込んだ。
(これが……外の音……)
街の空気には、人の想いが混ざっている。
期待、焦り、笑い、ちょっとした怒り。
それらがすべて風の粒になって漂っていた。
影の体が、ほんの少し波打った。
リオナはその揺れを感じ取り、
歩調をゆるめる。
「無理しないでいいよ。
この世界は、音が多いから」
「……たくさん……いる……」
影の声が、風の中で微かに揺れた。
それは言葉というより、息のような思念。
「うん。
でも、誰も君を見ていない。
安心していい」
影は沈黙した。
その沈黙は恐れではなく、観察だった。
音。
光。
香り。
重ねられる人の気配。
リオナが足を止めたとき、
影も同じように止まった。
そこは市場の角。
焼きたてのパンとスープの香りが混ざり、
誰かの笑い声がやわらかく響く。
影が、ふっと風を動かした。
パンの香りが一瞬だけ強くなり、
リオナの頬を撫でた。
「……おいしそう、って思った?」
影は揺れた。
否定でも肯定でもない。
けれど、確かに“反応”だった。
(ああ、そうか。
影も香りを“味わえる”んだ)
風が通り過ぎる。
光が影を薄くし、また戻す。
街のざわめきは、
影にとって――生きている世界の息づかい。
そのとき、
近くの子どもが影のすぐそばを駆け抜けた。
転がる木の玉が地面を跳ねる。
リオナが手を伸ばして拾おうとすると、
影が先に反応した。
風がふっと動いた。
木の玉が彼女の手のひらに、
まるで“運ばれる”ように転がってきた。
リオナは驚き、
そして小さく笑う。
「……ありがとう」
影はゆらりと揺れ、
光を少しだけ吸い込んだ。
その光はまるで、
“照れ”という感情のように見えた。
街の喧騒が再び動き始め、
人々が通りを行き交う。
リオナは影に向かって、
穏やかに言う。
「世界ってね、
うるさいけど、悪くないんだよ」
影は答えない。
けれど、足元の石畳に
小さな揺らぎの模様が浮かんだ。
それは風が描いた花の形に見えた。
リオナはその模様を見つめながら思う。
(君の心も、外の世界を感じ始めてるんだね)
影が初めて“世界のざわめき”を感じた日。
それは好奇心と少しの戸惑いの混ざる朝。
怖がりながらも前に進む姿は、
まるで小さな灯が風に揺れながら燃えているようだった。
世界は広く、やさしく、
そしてときに鋭い。
影の旅は、今まさに始まった。




