第1章 第50話:やわらかな約束 ― 名前になる前の言葉
呼ばれずに来て、
呼ばれずに帰る存在。
名前はまだない。
でも、呼ぶ必要がないほど
そばにある気配がある。
言葉ではなく、
誓いでもなく、
ただ「またね」と胸が言う。
名前はまだ眠っている。
だが“約束”は、静かに芽吹き始めた。
朝の露が乾き、
昼の光が静かに庭へ降りてくる。
日常が戻る音。
子どもの笑い声、
どこかで焼かれるパンの香り、
市場の軽やかな呼び声。
リオナは縁側に座り、
手のひらを膝の上においた。
(今日も来るかもしれないし、
来ないかもしれない)
それでいい。
すでに心は、
“待つ”のではなく“ある”を抱いている。
風がふわりと吹いた。
物音ひとつ立てず、
影の気配が庭に降りる。
驚かない。
驚く必要が、もうない。
リオナは視線だけで庭を見た。
影は今日、形を持たなかった。
ただ、そばにいる空気の揺れだけ。
(今日の君は、そういう日なんだね)
リオナは立ち、
水庭のそばへ歩く。
足元の砂利が小さくかすれる音が、
庭にやさしく響く。
影が少し揺れた。
風に揺れた草のように。
逃げず、寄らず、
“そこにいる”という意思だけがある。
リオナは手をそっと胸の前に置く。
「ここにいてくれて、ありがとう」
影は返事をしない。
だが、静寂が嬉しさで満ちる。
「……ここ……すき……」
それは声というより、
心が色になって溢れたような響き。
リオナの目がそっと細められる。
「私もだよ」
言葉は少なく、
でも十分だった。
風がふわりと影を包む。
影は離れない。
消えもしない。
ただ、リオナの隣に“残る”。
(この距離、この気配……
名前を呼んでしまえば壊れる気がする)
名前はやがて必要になる。
けれど今はまだ、
名前の前の時間を信じたい。
影がゆっくり揺れ、
地面に薄い影を落とす。
リオナはその影に目を落とし、
静かに言った。
「いつか、君が自分で名前を欲しいと思ったら——
そのときに一緒に探そう」
影は震えない。
ただ、ひとつ深く息をしたように
気配がととのう。
「……また……くる……」
(“来ていい?”ではない。
“来る”という意思)
それは約束ではなく、
宣言でもなく、
未来を選んだ心の兆し。
リオナの胸に、
ゆっくりと温かさが満ちる。
「うん。待たないけど……楽しみにしてる」
風が優しく庭を渡り、
影はその風に乗って、そっと薄れる。
消えてしまう最後の瞬間、
小さな光の粒がひとつ落ちた。
それは星ではなく、
露ではなく、
涙でもなく、
ただ“ここにいた”という光。
リオナはその光を手で覆う。
大事なものを守るように。
(第1章は、これで十分だ)
胸の奥で、
静かに何かが始まった音がした。
遠くで鐘が鳴り、
街が午後へと歩き出す。
光の粒は溶け、
胸の中にそっと沈んでいった。
名前がなくても、
呼び合わなくても、
そこに“いたい”と思う心がある。
それは約束の始まりであり、
まだ言葉にも触れない愛情の形。
第1章「影の声、灯の夢」はここで終わりです。
次章では、静かな関係が
少しずつ世界へにじみ出していきます。




