第1章 第49話:明け方の反響 ― 呼ばずに訪れる気配
影は香りを残し、
夜を去った。
そして夜明け前、
まだ世界が眠りと目覚めの狭間にいるとき――
影は呼ばれていないのに、そっと訪れる。
理由はない。
ただ“そこが自分のいる場所だ”と
心が知ってしまったから。
空はまだ群青で、
朝の兆しは薄くにじむ程度。
草に露がひそかに膨らみ、
水庭の水面に星の最後の光が揺れている。
リオナはまだ眠っていた。
浅い眠り。
心地よい波の中で漂うような眠り。
その時、
空気が静かに重なった。
音はない。
風も吹かない。
ただ、世界の密度がひと息だけ増える。
(……きた)
寝ているはずなのに、
意識の底で気づく。
夢の中のまどろみの奥で、
微かな気配が庭に降りたのを感じる。
影は姿を作らない。
輪郭も持たない。
まだ夜の布と朝の糸の間に溶けている。
だが――確かに“いる”。
リオナはゆっくりと目を開ける。
光はまだ弱く、
部屋は青い影の中。
起き上がるのではなく、
ただ目を開け、息を整え、
庭の気配を聴く。
外で露がひと粒、落ちた。
その瞬間、
影の気配がそっと寄る。
“起こす”ためではない。
“確認”するためでもない。
ただ――そばにいたいだけ。
(呼んでないのに……)
胸が静かに満たされる。
押し寄せるのではなく、
染みわたるように。
リオナは小さく笑う。
「……来たんだね」
声は囁きほど。
それでも気配が震えた。
影は言葉を持たない。
けれど今、この震えは
「うん」
という返事に思えた。
リオナは布団の上で
膝を抱えるように身体を丸め、
ふっと息を吐く。
「呼んでないのに来るのは、
信じてる証だよ」
返事はない。
ただ、気配が
朝の柔らかい空気の中に深く馴染んだ。
水庭の蓮が
光の前にゆっくりと開く準備を始める。
影はその動きを見守り、
まるで朝が育つのを手伝っているかのよう。
リオナの胸に
じんわりと温かい光が灯った。
(帰ってくる場所と思ってくれているんだ)
そのことが、
静かに、深く、嬉しい。
やがて空がひと色明るくなり、
鳥の声が遠くでひとつ鳴った。
影はそれを合図のように
ゆっくり薄れていく。
消えるとき、
風がそっと肩を撫でた。
「また……来たいときにおいで」
言葉はやさしい糸になり、
影に渡る。
影は応えるように、
露をひと粒だけ残した。
朝光に照らされて、
それは宝石のように光る。
リオナは目を閉じ、
そっと胸に手を置いた。
(呼ばずに来て、
呼ばれずに帰っていく。
そんな関係が……いい)
世界が覚醒を始める中、
静かな幸福が胸に座っていた。
影は呼ばれなかった。
それでも来た。
望むからではなく、
「そこにいたい」と思ったから。
それは愛や執着ではない。
もっと原初的で、
もっと静かで、
もっと自由なつながり。




