第1章 第47話:影の午後 ― 触れずに抱く時間
言葉を交わさず、
手紙も書かず、
ただ“気づく”だけで通じた昨日。
今日は午後の光の中で、
影は何もしない。「いる」だけ。
それは行動ではなく、
選ばれた居場所。
午後の光は柔らかく、
庭の草に透けて、
薄い金色の波を作っていた。
遠くで楽団の稽古が始まったのか、
かすかなリズムが風に混じる。
街のざわめきは穏やかで、
市場の声もどこかゆるやか。
リオナは縁側に座り、
読んでいた本をゆっくり閉じた。
目が疲れたわけでも、
内容に飽きたわけでもない。
ただ——
庭に漂う空気が“変わった”のを感じたのだ。
(来ている)
影の足音はない。
風はいつもどおりに吹く。
でも、空気の密度が変わる。
リオナが顔を上げると、
影は水庭の向こうに立っていた。
昨日より少しだけ近い。
けれど、まだ縁側に届かない距離。
その距離が、ちょうどよかった。
リオナは何も言わず、
静かにカップに草花茶を注いだ。
自分だけの一杯。
影のぶんは、今日は用意しない。
(用意しなくても、いてくれる)
その事実が、優しい。
影は一歩も動かず、
揺らぐこともなく、
ただ“立っている”。
水庭の光が影の輪郭を縁取り、
薄い影が地面に落ちていた。
リオナは湯を飲み、
草の香りをゆっくり味わう。
影は何もしない。
リオナも何もしない。
けれど、それは空白ではなかった。
(触れなくても、抱いているような時間だ)
影がふわりと震える。
風ではなく、
影の“感情”が揺れたように。
リオナはそっと声を出す。
「……静かだね」
影は言葉を返さない。
そのかわり、
地面の影がわずかに濃くなった。
(うん)
そう言った気配。
音ではない返事。
でも、十分だった。
しばらく、ふたりは夕方へ沈んでいくように、
ただそこにいた。
風が庭木を揺らし、
木漏れ日が影の輪郭を点々と照らす。
リオナは想う。
影の形は、まだ線のようで曖昧だけれど、
今ならわかる。
気持ちは形より先に育つ。
影がすっと薄れ、
夕方の光の中で静かに消えた。
言葉も音も残さず。
でも、消えたあとに残ったのは
“満ちた静けさ”。
リオナはカップを置き、手を胸に当てた。
(さみしくない)
孤独でもない。
ただ、誰かと同じ午後を通り抜けた感覚があった。
「……またね」
返事はない。
でも、庭の空気がひと呼吸だけ揺れた。
それが、返事だった。
なにもしない午後。
でも、心は確かに寄り添っていた。
影は“そばにいる”ことを覚えた。
リオナは“そばにある気配”を信じた。
触れない。
語らない。
それでも——
一緒に時間を抱いていた。




