第1章 第46話:午後の手紙 ― 届かない言葉のやりとり
影が休んだ場所に残った温度。
それは静かな余韻であり、ふたりだけの秘密。
そして午後。
リオナは、言葉を書かない手紙を置く。
影は読むことはできない。
けれど――
“気づく”という形で、返事をする。
午後の光が斜めに差し込み、
庭の草に薄い影が落ちていた。
街からは、子どもたちの遊ぶ声。
市場の呼び声。
風に揺れる布の音。
穏やかな日。
何も起きないはずの、静かな午後。
リオナは机に座り、
紙ではなく薄い木片を指先で撫でていた。
(影は文字を読めない。
そもそも文字という形をまだ知らない。
なら、言葉じゃなくていい)
リオナは木片の表面に、
指でゆっくりと“線”を描いた。
筆跡ではなく、爪でもない。
ただ、そっと。
木の上に触れた時間を残す。
どんな線かは意味を持たない。
けれど、その動きには
ひとつの気持ちが込められている。
(ここにいてくれて、ありがとう)
言葉ではない。
でも、手の温度が木に移る。
リオナはその木片を、
影が休んだ敷布のそばに置いた。
「手紙じゃないよ。
ただ、触れたかっただけ」
声にしたところで、
誰が聞くわけでもない。
でも――ひとりごとではなかった。
リオナは縁側に戻り、湯をすする。
午後の風が、髪をやさしく揺らした。
(届かなくてもいい)
そう思った瞬間――
風が止まった。
ただの偶然。
でも、それは偶然としては静かすぎる。
庭の空気が、そっと揺れる。
影は見えない。
気配も音もない。
けれど、
敷布の上の木片が、すこしだけ震えた。
かたり
揺らしたのは風ではない。
影でもない。
「気づいて、くれたんだな」
リオナの声は小さかった。
胸にそっと溢れる温度があった。
木片の上に、露がひと粒落ちていた。
涙ではない。
水ではない。
ただの露。
だが、それは午前の露とは違う。
吸い込んだ光を、ほんの少し温かく返す露。
(返事だ……)
影は言葉を発さない。
でも、気配を残した。
「気づいたよ」と言うように。
リオナは微笑む。
「読めなくていい、返せなくていい。
ただ、感じてくれるだけで十分だよ」
風がまた動き、
庭の草が揺れる。
木片の露は蒸発し、痕跡も消える。
けれどリオナの胸には、
その露の温度が残っていた。
(これはきっと、心のやりとりなんだ)
その午後、影は姿を現さなかった。
でも、不在が返事になった。
リオナはそっと空を見上げる。
「ありがとう」
声は風に乗り、
庭に静かに溶けていった。
手紙は書かれなかった。
影は言葉も返さなかった。
それでも、
交わされたものがあった。
不在は拒絶ではなく、
時に“信頼”の形になる。
影は気づく。
リオナも気づく。
言葉にならない対話は、
もう始まっている。




