第1章 第45話:朝露のゆりかご ― 影が残した温度
夜の休息は、眠りではなく、
“安心”という名の静けさだった。
そして朝。
影はもういない——
はずなのに、庭にはひとつ、
あたたかさだけが残っていた。
朝の光が水庭にこぼれ、
露の粒が葉の上で小さく輝いていた。
鳥たちの声がささやき、
街が静かに目覚める。
リオナは縁側に出ると、
まず水庭を見つめた。
睡蓮の葉はまだ閉じかけのまま、
光を吸い込む準備をしている。
(昨夜の影……休んでいたな)
思い出すだけで、胸に柔らかい灯が点る。
それは明るさではなく、ぬくもり。
ふと、視線が敷布の場所へ向いた。
草で編んだ敷布の上には、露が丸く並び、
朝日を受けて宝石のように光っている。
だが——
その中央にだけ、露が落ちていなかった。
そこだけ、土がわずかに湿り、
ほんのりとした、信じられないほど微かな温度がある。
リオナはしゃがみ込み、指をかざす。
触れない。
ただ、感じ取る。
(残ってる……)
影は去ったのに、
温度だけがここにある。
それは生き物の温度とは異なる。
炎とも違う。
星の欠片とも違う。
言葉にできない、
ただ“いた”という温度。
リオナは、そっと微笑む。
「……ありがとう」
この言葉は、影に向けたものでも、
自分に向けたものでもない。
ただ、存在していたことに対する
静かな感謝だった。
風が、敷布を揺らす。
露がひとつ落ち、
小さな音を立てて弾けた。
リオナは手を胸に当て、
心の奥を感じる。
(寂しい、じゃない。
これは……“いとおしい”だ)
単語にはならない。
でも確かに心に触れる感覚。
遠くでパン屋の煙突から
朝の煙が立ち上り、
子どもの笑い声が聞こえる。
世界は変わらず動いている。
並行して――
リオナの中でも、何かが動き始めていた。
「行ってみようか」
リオナはそっと立ち上がる。
街へ向かうわけではない。
庭の奥へ、足を進めた。
影が眠った場所を背に、
リオナは思う。
(名前はまだいらない。
形もまだ急がない。
でも、確かに“始まっている”)
睡蓮が一輪、朝に向かって開きはじめる。
その花びらの震えは、
まるで影の気配が風に触れたようだった。
静かに、穏やかに、
朝は満ちていく。
影が残したのは、姿ではなく、温度。
それは心が形を持ち始めた証。
寂しさではなく、
喪失でもなく、
「いとおしさ」という名の揺れ。
リオナは気づく。
見守るだけではなく、
“ともに息をする”時間が育ちつつあることに。




