第1章 第44話:影の揺り籠 ― はじめて眠った夜
影は飲まず、触れず、
ただ湯気のそばに立った。
それだけで“共にいた”夜があった。
そして今夜、
影ははじめて“休む”という選択をする。
眠るためではない。
ただ――安心を抱きたくて。
夜風は静かで、
遠くの家々の灯りが、
水面に小さな金色を散らしていた。
リオナは庭に低い台を置き、
草で編んだ敷布をそっと敷いた。
それは席でも、寝床でもない。
ただの“柔らかい場所”。
(特別な理由はない。
でも……あってもいい気がした)
湯を少しだけ温め直し、
縁側に腰を下ろす。
風が裾を揺らし、
草の香りと夜露の匂いが混ざる。
その時だ。
影が、音もなく、降りてきた。
昨日より早い。
昨日よりすこし密度がある。
そして昨日より――落ち着いていた。
リオナは声を出さない。
ただ、影を迎える空気を整える。
影はゆっくりと近づき、
いつもの場所ではなく、
今夜は敷布の前で止まった。
その姿は、
まるで“そこでいいのか”と確かめる子どものよう。
リオナはそっと息を吸い、
静かに敷布の端を手で示した。
「そこ、君の場所だよ」
影はためらい、
風になりそうになり、
それでも――消えずに留まった。
一歩。
影が台の上に滑り込むように乗った。
しずか。
しずか。
まるで水が器にそっと入るよう。
影の輪郭が淡く揺れ、
音がひとつ落ちた。
ちり……
それは疲れの音ではなく、
安心がほどける音。
「……ねむく……ない……」
影の小さな音。
それは言い訳でも宣言でもない。
ただ“強がらなくていい”と伝えるための言葉のようだった。
リオナは静かに頷く。
「眠らなくていい。
ここで、ただ休んでいればいい」
影は、少しだけ形を濃くした。
そして――頭を垂れるように、
しずかに身を丸くした。
眠りではない。
でも、眠りより深い安心の形。
影は休んでいる。
世界を警戒せず、
離れず、寄りすぎず、
ただ“そこにいられる”状態。
風が優しく吹き、
月明かりが草に降りる。
リオナは目を閉じ、湯を口に含む。
(そうか……
これはきっと、安心という名前の眠りだ)
影はひとつ息をつくように震え、
暗闇と光のあいだで静かに揺れた。
その姿は、
名前のない子の最初の夢のように見えた。
やがて、夜が深く深く沈み、
星も薄れていく頃――
影はそっと立ち上がり、
風のように溶けていった。
去る前に、影の足元に
微かな光の粒がふたつ落ちた。
ちり……ちり……
音はすぐに消えたが、
温度はしっかり残った。
リオナはそれを見つめ、
掌を胸に当てた。
「……よかったね。休めたね」
声は夜に溶け、
だけど影の耳に届いた気がした。
影は“眠った”のではなく、
休むことを覚えた。
休息とは、
弱さではなく、
“安心の証”だ。
息を揃えることも、
寄り添うことも、
触れずにできる。
リオナは知る。
その夜、ふたりは同じ静けさを飲んでいた。




