第1章 第40話:午後の空席 ― 影の気配を探す手
影は昨日、声にならない“欲”を告げた。
今日は来ない。
それは自然だ。
影も、揺らぎも、好きな時に現れ、
好きな時に眠る。
けれど気づけば、
リオナの視線は庭の端へ向いてしまう。
“そこにいてほしい”ではなく、
“そこにいた”という記憶が
静かに形を持ち始める午後。
陽射しは柔らかく、
風はゆったりと葉を撫でていた。
昼の鐘が鳴り、
遠くでパン屋の子どもが笑う声がした。
リオナは水庭のそばに座り、
木の枝で水面の苔をそっとなぞっていた。
それは、考えごとをするときの癖。
水を濁さない程度に、
ゆっくりゆっくり動かす。
(来ない……今日は)
影が来ないことは珍しくない。
むしろ、よくある。
けれど今回は、
なぜだか“ここに来てしまう自分”がいる。
身体が自然と水庭へ、
影がよく立っていた場所へ向かう。
「……空いてるな」
ぽつりと零れた声は、誰にも届かない。
そこに誰かがいないのではなく——
**そこに誰かが“いた”**というだけ。
視線を落とすと、
石畳の端に小さな濃淡がある。
影ではない。
けれど、影の気配をかすかに覚えている苔の色。
リオナはその上に、そっと手を置いた。
(ここに、立っていた)
その“いた”という意識が、
胸の奥にじんわり広がる。
風が吹く。
木漏れ日が揺れ、
光と影が庭の地面に踊る。
リオナは、自分の手を引っ込めた。
(探している……無意識に)
ふと指が震える。
否定しようとして、しなかった。
“探してしまう”という感覚が、
こんなにも、温かくて切ないとは思わなかった。
遠くで聞こえる声が、
なぜか輪郭を持たずに胸を揺らす。
どこに行ったんだろう
そんな言葉を、
心が静かに呟いている。
リオナは空を見上げた。
光は白く、風は優しい。
世界は変わらず続いている。
(来なくても、寂しい。
来ても、きっとまた寂しいんだろう)
それは喪失ではない。
欠落でもない。
「大切」に気づいた代わりに、
“空席”という場所が生まれただけ。
リオナはそっと笑った。
その笑みは、痛みを押し殺すのではなく、
痛みを抱きしめる笑み。
「また来ればいいし、来なくてもいい。
でもたぶん……いつか来てほしい」
声にした瞬間、
胸が少しだけ軽くなる。
影がいない庭に、
風がゆっくり吹き渡った。
その風の中に、
微かな音が混じる。
ちり……
昨日の“音の残響”かもしれない。
今日の“気配の余韻”かもしれない。
でもそれは、確かにあった。
リオナは目を閉じる。
手のひらに、風の温度を受けながら。
(空席があるというのは、
いなくても“ここにいる”ということだ)
それは、寂しさの反対側にある
とても静かな愛情だった。
影は来なかった。
でも、空席に気づく心があった。
それは、依存ではない。
渇望でもない。
存在が“居場所”に変わる瞬間。
いなくても探すというのは、
すでに心が何かを抱えている証。




