第1章 第38話:風が触れた手 ― はじめての寂しさ
存在が音を残し、
朝の鐘が世界を開いた。
影は来ない。
でも、消えたわけじゃない。
リオナは気づく。
待つという行為には、
いつか来るを信じる心が宿るのだと。
そして今日、
胸に触れたのは——
はじめての“寂しさ”。
柔らかな朝の光が差し込み、
水庭が静かにきらめいていた。
睡蓮の葉の上で露が丸く光り、
昨日の星の欠片の名残が、
まだ水面に溶けているように見える。
リオナは縁側に座り、
湯気の立つお茶を手にしていた。
(来ないんだな)
胸の中に、ぽつんと沈む感覚。
影がいない朝は初めてではない。
なのに、今日はそれが空白のように感じられた。
手を伸ばしても、触れるものはない。
声をかけても、風しか返さない。
それなのに、
背中に“気配”がまだ残っているような気がした。
(……おかしいな)
観測士は、干渉しない。
見守り、寄り添うだけ。
そのはずだった。
「……さみしい、かもしれない」
自分の口からこぼれた声に、
リオナはゆっくりと瞬きした。
寂しさ。
それは、誰かに埋めてほしい穴ではなく、
誰かが残した温度の余韻。
(こんな気持ち、久しぶりだ)
世界の揺らぎを見る仕事の中で、
リオナは多くの心の動きを見てきた。
けれど、自分の中に芽生えたものは——
とても静かで、とても柔らかい痛みだった。
指先に風が触れる。
それは、空気のはずなのに、
ほんの一瞬だけ手を握られたような錯覚が走る。
リオナははっとして振り向く。
だが、誰もいない。
(影……じゃない。
あれは……“気配の残り香”)
影が来なかったことで、
逆に“そこにいた”ことが強く残る。
姿が消えると、
心が残る。
風が庭を撫で、
睡蓮がかすかに揺れた。
リオナはそっと胸に手を当てる。
(名前を与えない。
言葉を急がせない。
ただ見守る。
それでも……)
寂しさは、
誰かを囲う檻ではなく、
誰かが大切だと知る証。
リオナは小さく笑った。
「……また会いたいと、思っているんだな」
それは強制でも、要求でもなく、
願いの形をした手のひら。
風が温かく吹き、
縁側の端に、微かな光の粒が揺れた。
昨日の音か、
今日の余韻か、
それとも——影の気配か。
分からなくてもよかった。
確かに、そこに“いた”のだから。
リオナは目を閉じ、深く息を吸う。
(待つ時間も、悪くない)
その瞬間、胸の痛みがゆっくりとほどけ、
やさしい温度に変わった。
寂しさは、消えたのではない。
居場所を得たのだ。
影は来なかった。
それなのに、心は動いた。
寂しさを知るというのは、
喪失ではなく、
誰かが自分の中に残った証。
リオナは観測士でありながら、
ひとりの人間として
“待つ”という感情を抱いた。




