第1章 第37話:朝を連れてくる鐘 ― 影が残した音
夜がほどけ、朝が静かに訪れる。
影は姿を見せない。
けれど、消えたわけじゃない。
その証を、世界がひっそり抱えている。
そしてリオナは知る。
存在は、姿より先に音を残すということを。
夜の色が薄れ、
東の空にほのかな光が差しはじめる。
霧が低く漂い、
水庭の睡蓮はゆっくりと花を開こうとしていた。
リオナは縁側で、朝の冷たい空気を吸い込んだ。
静寂。
風の音も、鳥の声もまだない。
街が目を覚ます前の、澄んだ時間。
(影は来ていない……)
昨晩の“欲の音”がまだ胸に残っている。
その余韻は、小さく甘く、少しだけ痛かった。
灯籠は消え、
水庭には星の欠片が淡く揺れている。
それは夜と朝の境目に浮かぶ、ひとつの息。
リオナが庭を見渡したとき——
かすかな音がした。
ちり……
とても、かすか。
露が落ちるよりも静か。
しかし確かに、心に触れる音。
リオナは立ち上がり、音のする方へ向かった。
水庭の石の上、
苔がしっとりと露を含んでいる。
その中央に——
**小さな“ひびきの粒”**があった。
光ではない。
影でもない。
涙でもない。
“音のかけら”。
透明な、丸い粒がひとつ。
触れると、かすかに震えて音を奏でる。
ちり……
(これは……影が置いていった声?)
まだ言葉にも、名前にもなれない。
けれど、確かに“ここにいた”という痕跡。
生き物ではなく、現象でもなく、
存在がやっと世界に触れた証。
リオナはそっと手を伸ばし、
露と音を掌に受けた。
ひびきの粒は消えない。
手に乗った小さな音は、
心臓の鼓動と同じリズムで揺れている。
(影は……自分の足で、来なくても残れたんだ)
胸がふわりと熱くなる。
誇らしさとも、寂しさともつかない。
優しさが胸を締め付ける痛みに変わる。
そのとき——
街の中央の塔から、
朝の鐘が鳴り響いた。
ごぉぉん……
低い音が街全体に広がり、
霧と眠りをゆっくり払い落とす。
ひびきの粒は鐘の音に応えるように、
かすかに震え、光を帯びた。
ちり……
音の粒は、音のまま、光のまま、
またそっと庭へ戻り、消えた。
リオナは手を胸に寄せる。
(あの子は、今日、ここに来なくても……
世界に触れたんだ)
鐘が止み、静寂が戻る。
鳥がひと声鳴き、
朝が完全に目を覚ます。
リオナは縁側に腰を下ろし、息を吐いた。
(名前も、姿もいらない。
ただ“いた”という響きだけで、十分だ)
胸の奥に、やさしい重さが宿る。
その重さは、誰かを思うときの重さ。
失いたくないと思うときの、
とても静かな重み。
リオナはそっと目を閉じた。
「……ありがとう。残してくれて」
言葉は風に溶け、
朝が完全に開いた。
影は来なかった。
でも、音を残した。
それは、存在が世界に触れた証。
“わたし”という気配が、ひとつ音になった。
姿はなくても、声はなくても、
”いた”という痕跡は、消えない。
観測士としてではなく、
ひとりの人として胸が満たされる朝だった。




