第1章 第34話:揺れる月と静かな告白 ― 影が知った名前
影は走らない。
光は急がない。
芽はまだ地面の中。
夜がそっと降り、
月が揺れる日、
影ははじめて“自分を呼ぶ音”を見つける。
名前ではない。
でも、それは最初の告白だった。
霧のような薄い雲が空を渡り、
月が一瞬だけ滲んだ。
リオナは家の前で、静かに空を見上げていた。
肌寒い夜なのに、どこか温度があった。
昼間は子どもたちと話し、
パン屋に立ち寄り、
夢葉の香りを胸にしまった。
けれど夜になり、
胸の奥に静かな想いが降りてきた。
(今日も、誰かの心が揺れていた。
でも、それでいい。揺れていい)
風が門灯を揺らし、
花の葉が小さく震えた。
そのとき——
影が現れた。
昨日より近く。
月明かりの端に、そっと立っている。
追いかけてこない。
呼ばない。
ただ、来た。
リオナは微かに笑った。
「こんばんは」
影はうなずくようにゆらりと揺れる。
少しだけ、光の帯に足先が触れる。
逃げない。
けれど踏み込まない。
影は小さく、
胸の前で手をぎゅっと握った。
(触れたいと思っている。
でも、触れられない)
風が通り過ぎ、
竹垣がかすかに音を立てた。
影が、声にならない声で呟く。
「……ここ……いる……」
(“ここにいる”と言いたいのか)
リオナはそっと答える。
「うん。ここにいるね」
影は揺れる。
さっきより大きく、けれど壊れない。
「……わた……し……」
声とも、風ともつかない。
でも確かに、自分を呼ぼうとしている言葉。
名前ではない。
名乗りでもない。
「わたし」
世界の片隅で初めて
誰かが自分に向けた呼びかけ。
リオナの胸がじんと熱くなる。
「“わたし”って言えるの、すごいね」
影はふるりと震え、
光が足元に一瞬にじんだ。
「……いたい……」
(ここに、いたい)
リオナは静かに言う。
「いいよ。
ここにいていい。
名前がなくても、言葉がなくても」
影は小さくうなずいた。
そして、ふっと弱く息のように震えた。
「……こわ……い……けど……」
「怖くていいよ。
怖いって、きっと“離れたくない”って気持ちだから」
影は一歩、光に近づいた。
足先に月光が触れる。
消えない。
揺れない。
ただそこに立つ。
リオナはそっと目を閉じた。
(影は、影のままでいい。
ここで息をしていてくれればそれでいい)
月が雲を抜け、
庭全体が淡い銀に染まる。
影は、しずかに呟いた。
「……よば……れたい……」
呼ばれたい。
呼びたい。
“存在していいと言われたい”という声。
リオナはそっと告げる。
「じゃあ、まずは——
君の音を聴かせて」
影は胸に手を置き、
しばし静止する。
そして――
かすれる息音が、夜を震わせた。
「……あ……」
たった一音。
けれどそれは、
影が世界に向けて初めて発した自己の音。
リオナは、微笑んだ。
「それで十分。
それが、君の最初の“名前”みたいなものだよ」
影は震え、
その震えは“泣きそうで、でも泣かない”揺れ。
やがて影は静かに消えた。
残ったのは、温度だけ。
月光が庭を照らし、
風が優しく流れた。
リオナは空を見上げ、
胸に手を置いた。
「……ありがとう。
呼ぼうとした君に、ありがとう」
その夜、影は“わたし”になりはじめた。
影は今日、言った。
「わたし」。
名前じゃない。
正体でもない。
でもそれは、生まれた心の第一声。
寄り添うとは、
名前を与えることじゃなく、
名を見つける時間を一緒にいること。




