第1章 第33話:夜半の葉とふたつの影 ― 星降る軒先で
夢葉に夜露が宿る夜。
願いは空へ、祈りは風へ。
だが、影は地に残る。
名前を持たず、言葉を覚えかけ、
寄り添い方もまだ知らない。
今夜、ふたつの影が出会う。
そしてリオナは、静かに見守る。
夜。
空には薄い雲と星の粒。
街の灯りがゆらぎ、
風が軒先の葉を揺らす。
リオナは縁側で湯を飲んでいた。
ただ温度を感じ、呼吸を整える時間。
市場で少女が置いていった夢葉を
小さな瓶に差しておいた。
淡い香りが漂い、静かな祈りのよう。
(あの子、今夜は眠れているだろうか……)
時計も鐘もない夜。
ただ、心の動きで時間が進む。
その時――
庭の端で、小さな足音。
とん……とん……
影の子だ。
灯りの外側で、小枝の影に溶けている。
リオナは目を向けるだけで、呼びはしない。
影は自分の意思で来た。
リオナはただ、迎えるだけでいい。
影の子は、かすかに首を傾けた。
その後ろから――
“もうひとつの影”が、ゆっくり現れた。
昨日湖で揺れていた揺らぎ。
形にも輪郭にもならず、
ただ気配だけの影。
ふたつの影は、互いを見た。
片方は“見える輪郭”。
片方は“まだ息のような揺らぎ”。
互いに触れようとしては、
すぐためらい、揺れる。
リオナは静かに思う。
(寄り添うのも、怖いことだ。
影は影を、光は光を、すぐには抱けない。
でも、こうして“近づこうとする”)
風が吹いた。
夢葉がそっと震える。
その瞬間、
影の子が小さく声を漏らした。
「……こわ……くない……?」
揺らぎの影は震え、
かすかな波紋が夜気に広がる。
「……わか、らない……」
声とも音ともつかない小さな答え。
互いに不安で、互いに知らない。
でも、近くにいる。
影の子は一歩だけ、前へ。
揺らぎの影は、一瞬だけ逃げそうになる。
けれど――踏みとどまる。
ふたりの影が、
触れずに、ただ向き合う。
リオナは胸の奥があたたかくなる。
言葉ではなく、
涙でもなく、
気取った優しさでもなく。
ただ“そばにいる”という意志。
それだけが、今夜は尊かった。
夜露が夢葉に落ち、
葉が微かに光った。
その瞬間、
揺らぎの影が小さく震え、
かすれた音がリオナの胸に届く。
「……いて、いい……?」
影の子はゆっくり頷いた。
声はひとつ。
だがそれは二人の影の心からこぼれた言葉のように響いた。
リオナはそっと答える。
「いいよ。
どこにいても、いい。
ただ、君の歩幅で」
夜風がやわらかく吹き、
ふたつの影は寄り添わず、離れず、
同じ場所に立ち続けた。
影は形を急がない。
光も完成しない。
それでいい。
リオナは湯を飲み干し、静かに目を閉じた。
(こうして少しずつ、世界は整っていくのだろう)
やがて、ふたつの影は溶けるように消えた。
けれど残った気配は、
灯火よりもやさしく、静かに夜を温めていた。
影が影を見て、逃げずに立った夜。
言葉は少しずつ、呼吸になる。
「一緒にいなくてもいい。
けれど、いなくならないようにそばにいる」
そんな関係の最初の一歩。
リオナは触れない。
ただ、世界が“自分で芽吹く”瞬間を見守る。




