第1章 第32話:夢葉の市 ― 言えない願いと香る露
街に、年に数度だけ開かれる「夢葉の市」。
香りを持つ葉に願いをそっと吹き込み、
夜の露が落ちれば、想いは静かに空へ昇るという。
今日、リオナはそこで
“言葉にならない願い”と出会う。
それは涙でも影でもなく、
まだ言えない、けれど消えない祈りの形。
朝の光は柔らかく、
市場の通りはすでに色とりどりの布と果物に染まっていた。
今日は「夢葉の市」。
人々が小さな束になった“夢葉”を買い求める日だ。
夢葉は、ほんのり甘く、すこし切ない香り。
夜、露が落ちると淡く光り、
願い事を星に運ぶと信じられている。
子どもが笑い、
職人が声を張り上げ、
老人がゆっくりと歩いて葉を選ぶ。
リオナも、静かにその流れに身を任せていた。
(光の涙も、影の声も、芽吹かぬ揺らぎも……
いま、この街は全部抱えて生きている)
穏やかだ。
けれど、水の下では色々な心が漂っている気がする。
露店のひとつで、少女が困っていた。
両手いっぱいの夢葉を抱え、ぎゅっと口を結んでいる。
声が、出ない。
叫びたいわけでも、泣きたいわけでもない。
ただ、言葉のかわりに胸がつまっている。
リオナはそっと近づいた。
「それ、たくさんだね。誰かに渡すの?」
少女は頷く。
小さな手のひらにある葉は十枚。
――十という数は、この街で「願いの数」を表す。
誰かに、たくさん願いを渡したい。
でも、まだ言えない。
少女は唇を噛む。
目が潤う。
けれど、涙にはならない。
それは“まだ崩れたくない心”のしるし。
リオナはしゃがみ、そっと問いかけた。
「言いたいけど言えない言葉がある?」
少女は驚いた顔をして、ぎゅっと頷く。
胸が苦しいほどの頷きだった。
「無理に言わなくていい。
願いって、声にならなくても伝わるよ」
少女の瞳が揺れ、夢葉を見下ろす。
「……でも。
言わないと、忘れちゃいそうで……」
その声は小さく、かすれていた。
過去にしがみつきたいわけでも、未来を急かしたいわけでもない。
ただ、“なくなりそうな大切”を抱えていた。
リオナはそっと夢葉を指で撫でる。
「じゃあ――ここに置いていこうか。
言葉が見つかるまで、この葉が覚えていてくれる」
少女は涙をこらえながら、
草の籠にそっと葉を置いた。
葉はほのかに光り、甘い香りがふわりと漂う。
「いつか、言えるようになるよ。
そのとき、ちゃんと届くから」
少女はこくりとうなずき、走り去った。
涙は流れないまま。
でも、それでよかった。
胸にしまったまま抱きしめる願いもある。
まだ言わない強さもある。
リオナが立ち上がると――
視界の端で、あの影の子が揺れていた。
市場の屋根の上、
吊り布の影の中で、そっと見ている。
そのそばに、
昨日湖の声に似た淡い揺らぎもいた。
光になれない。
影にもなれない。
ただ“そこにいるしかない心”。
(……今日も来ている)
リオナは影に直接声をかけない。
代わりに、夢葉の束を一枚、空へ向けて風に乗せる。
そよ……と葉が舞い、
影のそばを通り抜けた時、
影の輪郭がほんの一瞬だけ柔らかく揺れた。
声にはならない。
でも、そこに“願い”が宿った。
いつか、言えるようになりたい
そんな気配が、静かに震えた。
リオナは微笑む。
「言葉は、急がなくていいね。
まだ名前のない気持ちにも、風は吹くから」
市場の喧騒の中、
一瞬だけ世界が音を失い、
そのあとまた賑わいが戻る。
夢葉の香りが、空に溶けた。
願いは、言葉より先に芽吹く。
人は言えなくても、
心がもう“感じて”いるなら、それでいい。
泣けない子、影の子、光に怖じる子、芽吹けない声。
それぞれが、それぞれの時間で育っている。
今日、影は少しだけ揺らぎ、
願いという温度に触れた。




